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■新聞「奨学」生、奨学生と名は付いているが、単に市場並みの賃金を払っているだけ

 新聞奨学生ってそんなに恵まれているのか?朝日奨学会のサイトに条件を参考に、ちょっと計算してみた。これによれば4年間勤め上げると学費を最大で520万、このほかに給与が平均152,240円もらえるという。二つあわせて4年間で1,250万円強だ。一方、朝日新聞販売店の求人ではどういう条件になっているかを「タウンワーク」で見れば、埼玉でも月給28万円などの求人が並ぶ(一例)。仮に月給28万円とすると、4年間で1,344万円。さらにこちらは社会保険完備なので社会保険料の使用者負担がプラスされるわけだ。この二つを見比べると、新聞「奨学」生、新聞社にとって経済的なメリットはそれなりにある制度ではないか。単に労働力の対価として正当な賃金を払っているだけの話だろう。新聞「奨学」生に給付されう学費520万は4年間勤め上げなければ返還の義務があることを考えればなおさらである。

 それにしても、なのである。労働力に対して正当な対価を払っただけのことで「奨学」などとさも世のため人のためにやってますよなんて宣伝し、それを弱者が這い上がるための制度だ、新聞社の社会貢献だなどと擁護する人間まで出てくる。いやー、使用者側って実に恵まれてますね。低所得者が「家賃が高い、家主はぼったくりだ」なんて言おうものなら即ネットで袋叩き。低所得者の労働力に対して正当な対価を払っただけのことなのに「企業は赤字を出している」なんていってもだーれも非難しない。この国には労働力泥棒が実にたくさんいることがわかるエピソードである。

■「全日制高校立入禁止」の看板

1.新制高等学校の「理想」
 戦後の教育改革で文部省は新制高等学校につき「希望者全入」の理想を掲げた。

 高等学校は、希望する者全部を収容するに足るように将来拡充していくべきであり、その計画は、高等学校において修学を希望する者の数を調査する等合理的な基礎の上に立つて行われるべきものである。希望者全部の入学できることが理想であるから、都道府県及び市町村等は高等学校の設置に対して努力してほしい。また、高等学校の設置は官立・公立・私立のいずれの場合もある。
(文部省学校教育局「新学校制度実施準備の案内」より)

 また、新制定時制高校については次のような理想も掲げた。

新制中学校の卒業者及びこれと同等以上の者で全日制の課程へ進まない者は、すべてこれを定時制の課程に進学させることが望ましいのであるが、現在ではこれは義務制ではないので、このことを実現するには、学校の教育そのものを彼等が喜んで出席するような魅力あり、且つ有用なものにすることが、特に必要である。これは早急には果されないことであるが、常にこの目標を目指して、長期にわたって漸進的に、しかも堅実な改善を加えていかなければならない。
(文部省学校教育局「新制高等学校実施の手引」)

 さらに時の文部省は「青年学校のように生徒が義務制という縄で学校にしばりつけられたならば、青年の心は学校から離反するかも知れない。」(新制高等学校実施の手引)とまで述べた。新制高等学校は総合的に言って「来る者拒まず去るもの追わず」の理想を掲げたと言っていい。

2.現在の高等学校の「現実」
 さて、今現在の高等学校の現実はどうか。通信制の課程は「来る者拒まず去る者追わず」の理想を体現していると言っていい(ただし、営利目的である校も多いことは付言しておく)。定時制も比較的その理想を実現しているだろう。問題は全日制の課程である。来る者を拒んだと思ったら別のところでは去る者を追い、しかして自らのあり方を反省することはなく、去ろうとするのを生徒の責任に帰している。特別な課題(たとえば、学力であったり精神的な問題であったり、はたまた妊娠していることであったり)を抱えた生徒の前には「立入禁止」の看板を置いている。実際のところはその看板はハリボテで、無視して通ろうとすれば通れるのかもしれないが、とにもかくにも看板は置かれている。こんな看板を置くことが教育にとって有利であればまだ許容できるものであるが、実際にはそうでもない。通信制サポート校の存在はその証左であろう。特別な課題を抱えた生徒にとって通信教育の方法が特別に有利だと言うのなら「サポート校」など必要としないのであるが、実際のところはそうでないから「サポート校」に毎日通ってサポートをしてもらうわけである。このことを考えれば「立入禁止」の看板を置く正当性はまったくない。
 なるほど、全日制の教育を望まない生徒も多いであろう。望まない生徒に押し付けるのは間違いである。それは確かである。ただ、「立入禁止」の看板を生徒の前に置き、そしてその生徒がその看板に従って別の道を進むのは、決して主体的な進路選択とは言えない。主体的に進路を選ぶことができるのは、「立入禁止」の看板を取り払ったその後でのことである。

 と、自分の目の前にまさに「立入禁止」の看板を置かれた人間としては思うのだがね。京都府立朱雀高校で妊娠した女子生徒に通信制への転籍を慫慂したなんてニュースを聞いて、ふと書いてみた。

テーマ:教育問題 - ジャンル:政治・経済

■今の学校は「居場所」の機能を果たさざるを得なくなっていると思うのですが、しかし後期中等教育段階に至ると選別によって居場所すら失う青少年がいるわけでして

 自分で今の10代が「学園文化」への圧力を強く受ける問題の現状認識と原因分析 - Togetterまとめをまとめてからあれこれ考えていたのだが、なんだかんだと今の学校は伝統社会で言うところの「若者組」の機能を果たしていて、しかもこれは結構重要な役目だったりするわけで、だからこそ「学園文化」への圧力を強く受けることになるのだなと気づいた。

 つらつらと取りとめもなく説明していく。少年少女の成長には、少年少女同士での交友、また友人との「遊び」が必要だったりするわけだ。成人との関係では得られない対等な関係を取り結ぶことが成長の糧になるわけだな。そのような場を提供していたのは伝統社会なら若者組(若衆宿・娘宿)だったりした。このような場で少年少女は社会性を身につけ、さらには交際相手とも出会い、成熟していったわけだな。あまりにも荒い説明なのは認めるが、とりあえず伝統的な社会ではとりあえずそのようになっていた。
 ひるがえって、現代である。現代でも少年少女が同世代の仲間に出会う場の必要性はちっとも減っていない。ではその機能をどこが果たしているかと言えば、学校である。学校は単に教科学力を身につけさせる場だけではなく、特別活動や日々の生活を通じてさまざまな交友を深めていく場にもなっている。このことは、なんと学習指導要領の総則にも記述がある。「日ごろから学級経営の充実を図り,教師と児童の信頼関係及び児童相互の好ましい人間関係を育てるとともに児童理解を深め,生徒指導の充実を図ること」(小学校)、「教師と生徒の信頼関係及び生徒相互の好ましい人間関係を育てるとともに生徒理解を深め,生徒が自主的に判断,行動し積極的に自己を生かしていくことができるよう,生徒指導の充実を図ること」(中学校)、「教師と生徒の信頼関係及び生徒相互の好ましい人間関係を育てるとともに生徒理解を深め,生徒が主体的に判断,行動し積極的に自己を生かしていくことができるよう,生徒指導の充実を図ること」(高等学校)と、まさに学校が人間関係をはぐくむ場として機能せよと文科省は言っているわけだ。そして、学校は修学旅行や文化祭、体育祭などの特別活動を催し、また、部活動も提供してレクリエーションの場をも担っている。
 ここで重要なのは、今の社会では、少年少女に同世代の交友や「遊び」を提供する場は、学校がほぼ独占していることなのである。であるから、何らかの理由で学校から排除されれば同世代の交友や「遊び」からも排除されることになる。学校の重要な機能であるとされている教科学力など、ある程度のお金を払えば学校外で(本人の能力にもよるが)きちんと教授してもらうことができるであるから、学校の機能としてはさほど重要ではなかろうといったら言い過ぎであろうか。ひとつ例を挙げよう。15歳の少年が野球を本格的にやりたいと考えたら、おそらく野球部のある全日制高校への進学がもっとも近道になろう。
 このことをさらに極端な事例から浮き彫りにしていく。文科省が2014年に公表した「「不登校に関する実態調査」 ~平成18年度不登校生徒に関する追跡調査報告書~」には、中学校3年のときに不登校だった生徒へ聞き取り調査を行った結果が取りまとめられている。第4部・ケース分析という部である。その中で取り上げられている「否定的な語り」は<勉強・学力><友人関係><進路><思い出>という四つの観点に集約されている。「友人関係」「思い出」こそ私がここで言っている「交友」「遊び」のことを指すのである。学校に行かなかったことで「友人関係」「思い出」が欠落したと訴える語りが少なからずある、このことこそが学校が「交友」「遊び」を提供するきわめて重要な場になっている証左である。勉強・学力・進路は予備校という代替物がちゃんと存在しているので、本当に純粋に学力だけ欲しいなら予備校なり塾に通えばいいのであるが、友人関係や思い出を提供する代替物はほとんどといっていいほど見つからない。
 ここまでは今の10代が「学園文化」に呪縛されていることの背景の考察である。

 もっとも、このことは後期中等教育の段階では全日制高校に限って当てはまることである。夜間定時制高校に関しては、仕事の傍らに副業として通うのが建前の学校であり、学校にいる時間が全日制よりも短いことからも特別活動等も全日制よりは活発ではなく、これがために「居場所」の機能は全日制高校よりも弱いと考えられる。通信制高校に至っては、通信の方法により教育をする関係上、学校にいる時間がさらに短いことを勘案すれば、「居場所」の機能は全日制高校にくらべてきわめて弱いと考えられる。。さらにさらに、ついに高等学校やそれと同等の学校に進学することを断念し就職した、あるいは進学も就職もしなかった生徒は中学校卒業者の1%くらいはいるのである。彼らは青少年に必要な「居場所」から排除された状態と言えよう(なお、昼間定時制高校に関しては筆者が実態をよく知らないので考察の対象から外す)。
 ここで出てくるのが「サポート校」である。昼間通学する場を用意し、通信制高校の学習の面倒も見るという塾である。学費は高い割に、全日制高校に求められる施設基準を満たしているところはきわめて少ない。たいていは雑居ビルのワンフロアである。近年では私立通信制高校が自ら昼間通学させて学習の面倒を見る「学習センター」を設置、「全日型通信制高校」などと私からすれば語義矛盾もはなはだしいものを名乗るケースも少なくない。もちろん、この「学習センター」も全日制高校に求められる施設基準を満たさないもののほうが多いくらいである。何だってこのような施設が存在するかといえば、全日制高校は入学へのハードルが高い、だからそのハードルを越えられないものたちは定時制や通信制に追いやられる、しかしさりとて「居場所」は必要、昼間通うところが欲しいというニーズがあるからである。私は、このニーズを「きわめてゆがんだニーズ」と考えるがいかがだろう?通信制教育の本来のターゲットは何らかの理由で毎日通学できない生徒であるはずで、であるから毎日通学するなんて発想は本来なら出てこないはずなのである。そのような通信制を安易に「セーフティネット」と位置づけ、本来なら毎日通学したい生徒まで引き受けさせている。これが事実だろう。であるからこそ私は「きわめてゆがんだニーズ」と位置づけるわけである。
 細かい事情説明はこれくらいにするが、要するに、後期中等教育段階では、与えられる「居場所」の質さえも能力や事情によって変わってしまうのである。能力が低いとひどいときには「居場所」がまったく与えられないことになる。果たしてこれが望ましいことであろうか?と考えると、私は疑問符をつけざるを得ないと考える。そもそも、学力の話に限っても、学力が低い生徒の引き受け先が定時制や通信制であること自体、あるべき姿なのだろうかという疑問があるわけだ。自学自習に難があると考えられる低学力の生徒を自学自習が求められる通信制に送り込む今のシステムは、どうも間違っているようにしか見えないのである。そりゃあ、通信制高校は財政支出が少ないから行政コストが安上がりなのはわかりますがね、でも財政コストの話だけでしょと。そんなもので「居場所」の質が左右されていいのかなあと。
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テーマ:教育問題 - ジャンル:政治・経済

■ヘイトスピーチは単なる罵詈雑言・誹謗中傷の問題でも、単なる差別でもなく、ジェノサイドに向かう一過程である

 表題について、とりあえず図式化した。
ヘイトスピーチピラミッド
辺野古でヤンキーゴーホームと叫ぶと、ヘイトスピーチになるという珍説。 - Togetterまとめなどをみていると、ヘイトスピーチを罵詈雑言とか誹謗中傷と同じものと捉えている人が多いことが見受けられるが、本来のヘイトスピーチ概念はそんなものではない。前回の記事で紹介した、カナダ人権法の下でヘイトスピーチと認定するために用いられた「憎悪の特徴」を読んでいただければわかるように、終局的にはジェノサイドに結びつくような対立を煽るような表現なのであり、誹謗中傷よりもより深刻度が高いものである。このあたり、ヘイトスピーチ問題の論者の間でも混乱が見られるようで、その混乱がさらに規制に及び腰にさせる悪循環をもたらしているように見受けられる。ここで一度、ヘイトスピーチとはジェノサイドへのベクトルを持つものであることを再確認する必要があろう。

【2016.4.15追記】
 つまり、こういうことである。
具体例1
 ラジオが特定の民族へのヘイトスピーチを始終放送する→大統領が殺害→ラジオ、日ごろからヘイトスピーチの対称にしていた特定の民族を殺害するよう扇動する→80万人が殺害される
 (ルワンダ虐殺)

具体例2
 日常的にある民族に憎悪感情を持つものが多かった→大地震が発生→その民族が井戸に毒を入れているとどこからともなくデマが流れる。メディアもそのデマに乗る→特定の民族、虐殺される
 (1923年関東大震災)

 具体例2は、「デマが流れる」ところまでは今現在進行形で発生している。ここからエスカレートしないことを願う。そのためにもヘイトスピーチ規制が必要なのである。

テーマ:人権 - ジャンル:政治・経済

■ヘイトスピーチ概念の個人的な整理【全面改稿済み】

【2016/4/13全面改稿】
 とりあえず、ヘイトスピーチ概念が人権侵害の中にどう位置づけられるか、下の図にして整理した。
ヘイトスピーチ概念模式図
 では、具体的なヘイトスピーチの定義はなんなのか。この点、Journalism(朝日新聞出版)2013年11月号に収録された小谷順子氏の論文「アメリカとカナダの違いに学ぶヘイトスピーチ規制の法律と判例」に引用されている「憎悪の特徴」が参考になる。カナダ人権法の下でヘイトスピーチと認定するのに使われてきた項目である。以下にそのまま引用する。

(a)ターゲット集団が社会の主要な組織を支配して他者の生存や安全等を奪う強力な敵として描かれている。
(b)信頼性の高そうな実話やニュース報道映像等を用いることでターゲット集団をネガティブに一般化している。
(c)ターゲット集団が子ども、年配者、又は弱者等につけこむものとして描かれている。
(d)ターゲット集団が今日の社会と世界の抱える問題の原因として描かれている。
(e)。
(f)ターゲット集団の構成員が無価値で生来的に邪悪であるとする思想を伝える表現である。
(g)ターゲット集団による害悪から他者を救うためには当該集団の追放、隔離、又は絶滅が唯一の方法であることを伝える表現である。
(h)ターゲット集団を動物、害虫、又は排泄物と比較することで非人闇化している。
(i)極端に強い憎悪と侮辱を生み出すために非常に煽動的で侮辱的な表現が用いられている。
(j)ターゲット集団の構成員が過去に経験した迫害や悲劇を過小化したり祝福したりする。
(k)ターゲット集団に対する暴力を唱道する。

 在特会のヘイトデモの風景とこの特徴を照らし合わせ、まさにこんなことをやっていたなどと思われた方も多いであろう。このような特徴がいくつか見られることがヘイトスピーチの認定のためには必要とされているとのことである。私も、この特徴は非常によくヘイトスピーチの特徴を表していると考える。これらの特徴は、特定の属性を対象にした単なる誹謗中傷という域を超え、ジェノサイドへのベクトルを持つ(ジェノサイドについては(注)を参照)ものである。だからこそ、単なる人権侵害一般に対する規制よりも手厚い規制が必要になるのだ。
 具体的な事例をひとつ。小倉秀夫弁護士「「福島産は毒だ」など反原発が流してるデマ」はヘイトスピーチの定義から外れます。」 - Togetterまとめのコメント欄では「「おまえら朝鮮人の作ったものは毒だ」とコリアンタウンで言う」のがヘイトスピーチかどうかと問題提起をされているが、この例だと、「ターゲット集団が本質的に危険又は暴力的な存在として描かれている」「ターゲット集団の構成員が無価値で生来的に邪悪であるとする思想を伝える表現」であるかが問題になる。なので、(まずやらないだろうが)とりわけ食品の安全に厳しい生活クラブ生協の人たちが「韓国産食品は危険だ」とコリアンタウンで訴えてもおそらくはヘイトスピーチにはならない。特段に厳しい生活クラブの食品安全基準を満たさないものはすべて危険だとする思想を伝えているだけであるから。逆に、在特会の人間が同じことを言ったら、おそらくヘイトスピーチになる。朝鮮民族の人々が本質的に危険で邪悪であることを伝える一つの材料として韓国産食品の安全性を訴えているからだ。同じ判断基準で、「福島産食品は毒だ」とする表現がヘイトスピーチに該当するかも判断できる。そのような表現が、福島県の農家が本質的に危険だとする表現かと言ったら当てはまらないのではないか。どの属性の集団にもある課題のひとつとしての表現である限り、ヘイトスピーチには該当しない。確かに福島産食品は毒だとする表現は由々しきデマではあるのだが。ジェノサイドにもつながりかねない特に悪質な憎悪の扇動をヘイトスピーチとする立場からは福島産食品を毒だとするデマはヘイトスピーチには該当しないことになる。

 そして、近代の歴史上ジェノサイドに至るほどの憎悪を持ちえたのは、今のところ人種・民族・宗教に基づく差別だけである。小規模なものはあったのかもしれないが。であるからこそ、国際人権基準(人種差別撤廃条約と自由権規約)が人種・民族・宗教に基づく憎悪の扇動に限って法律で禁止しろと要求しているのである。もちろんこれらの限定は歴史上の経験に基づくものに過ぎないから、他の属性に対する憎悪扇動がジェノサイドに結びつきかねないものにまで至っている(具体的には「憎悪の特徴」に該当するもの)というのなら、それらもヘイトスピーチとして規制することは当然であるが、そうでないのなら、2002年人権擁護法案が社会の多層の「言論の自由を害する」との反対によって成立しなかったことを考えると、規制の対象にすることはできないと言えよう。ryoFC氏はこんな因縁をつけているが 福島差別がジェノサイドに結びつくベクトルを持っている(具体的には憎悪の特徴に該当する)ことを示すのが第一ではないか。人権擁護法案のように幅広くマイノリティの人権を救済する法案は「表現の自由」から成立しないのはわかりきったことで、ジェノサイドに結びつく特段に悪質な憎悪扇動に限って何とか法案を通そうとしているのがヘイトスピーチ規制賛成派の実情だからだ。
 過去、私はヘイトスピーチ概念の定義についてこれに反する見解を示していたことがあったが、それらはすべて撤回し、この記事にまとめたようなものを私の見解とする。

(注)ジェノサイドの定義について
 日本も加入している国際刑事裁判所ローマ規程は、ジェノサイドを次のように定義している。「集団殺害犯罪」は、日本の外務省がジェノサイドの訳語として採用したものだ。

 この規程の適用上、「集団殺害犯罪」とは、国民的、民族的、人種的又は宗教的な集団の全部又は一部に対し、その集団自体を破壊する意図をもって行う次のいずれかの行為をいう。
 (a)当該集団の構成員を殺害すること。
 (b)当該集団の構成員の身体又は精神に重大な害を与えること。
 (c)当該集団の全部又は一部に対し、身体的破壊をもたらすことを意図した生活条件を故意に課すこと。
 (d)当該集団内部の出生を妨げることを意図する措置をとること。
 (e)当該集団の児童を他の集団に強制的に移すこと。

 「国民的、民族的、人種的又は宗教的な集団」と限定がなされているが、これも、とりもなおさずそのような属性をもつ集団がジェノサイドの標的にされた歴史に基づくものである。もし今後これらの属性ではない属性を対象にジェノサイドがなされる兆候があれば、ジェノサイドの定義を拡充することはありうるだろう。
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ブログ名変えた(2011.4.24)。落ち着かないなあ。

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