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■東村山「人権の森」(多磨全生園)訪問記

 お盆休みを利用して東村山市の「人権の森」(多磨全生園)を見学してきた。今日はそのときのことを少しばかりレポートしてみようと思う。ここで少し人権の森について説明しておく。東村山市にある国立ハンセン病療養所・多磨全生園を人権の森として保全し、後世にハンセン病強制隔離政策のあやまちを伝えるという構想があり、ここで多磨全生園を人権の森と呼んでいる。以下「人権の森」と「多磨全生園」という表記を適宜使い分ける。

 降り立ったのは新秋津駅。ここから徒歩20分程度と聞いてはいたが道に迷ってもなんなのでバスを利用することにした。バス乗り場で標柱を見てみると「全生園前経由」とはっきり明記されているではないか。苛烈な差別により忌み嫌われたであろう施設がここでは少なくともバスの経由表記として使われていた。おそらくここまでになるには相当の時間を要したのだろうとは思う。バスに乗っていくとあっという間に全生園に到着。周囲を見渡すとどこにでもあるごくありふれた住宅街である。バス停の前には普通にマンションが建っていて、若い人がバス待ちをしていた。今となっては市街地に残された貴重な森、それが人権の森である。もっとも、ここまで市街地が近接するまでにもかなりの時間を要したのだろうとは思う。実際、各種の書籍を読んでいるともともとは人里離れた地であった記述がよく出てくる。
 さて、人権の森の敷地内に入る。通路の中心にきちんと白線が引かれているのが目に付く。案内板によると弱視者の案内のために引かれた線なので、自動車などは徐行するようにと記してあった。さっそく史跡が。樫の木の列だそうだ。かつて入所者が訪れた人を見送ることができたのはこの木の列までだったという。ここまで正門からほんの数十歩の距離である。たった数十歩の距離の長さを思う。事務本館の前を通って人権の森のメインストリート、中央通りに入る。なにやら音がする。交差点に取り付けられたスピーカーから音がしていると気付くまでにはそれほど時間がかからなかった。目が弱い人を導く音なのだろうと容易に推測できる。中央通りを進んでいくと郵便局とショッピングセンターが。ここは一つの町だったのだと思わせる建物である。入所者が多磨全生園の外に出ることが許されなかった当時、園内ですべての用を足せるようにこのような施設も用意されたのだろう。ほんの数分も歩くとそこはもう市街地なのに。もっとも、今では近いところにこのような利便施設を設けないと困ってしまうという居住者の方もいらっしゃるのだろう。近隣住民にとっても便利な施設ではある(これらの施設は誰でも利用できる)。通りを進んでいくと人権の森の端に辿り着く。ここから小道を通ると国立ハンセン病資料館だ。資料館内の展示を順次見ていく。

 国立ハンセン病資料館の展示の要旨を自分なりの理解で説明してみよう。ハンセン病は昔は悲惨な病気だった。細菌に皮膚を蝕まれ、潰瘍ができ、やがて失明もする。これが忌み嫌われる原因の一つだった。忌み嫌われ、文字通り棄てられた患者は諸方をさまよった。このような状況を憂慮した明治時代の日本政府は患者を療養所に入れ、隔離する政策を採る。生きる術のない患者を救済するという意図も当時の為政者にはあった。一種の院内救済だ。昔の人権意識だと救済とはどこか施設に収容して生活させるというものだった。もちろん感染症であることも隔離政策の理由であった。
 しかして当時から予算を低く抑えようという目論みもあり、患者に療養所の維持管理のための作業をさせる。また、居室も多人数の雑居。そんな中でも入所者同士で恋愛関係を芽生えさせ、やがて結婚を希望するようになる。当局側が結婚を認める条件として出してきたのが断種だ。やむなく断種を受け入れる。そういう屈辱を受けながらようやく結婚しても複数の夫婦の雑居。プライバシーなどまったく維持されない環境だった。およそ療養のための施設とは呼べないような待遇だったのだ。単なる隔離収容所である。政策と病気の性質がお互いに補完しながらハンセン病患者の生活を悲惨にしていった。病気自体だけでもしんどいのに安上がりに永久隔離収容を行うとする政策がしんどさに拍車をかけていった。また、患者を摘発して続々と療養所に送り込む。
 これらの政策を支えたのが誤った「救らい思想」である。この悲惨な病気の患者を救済し、そして新たな患者を産まないようにするのが社会のためであるという思想だ。およそ当事者の主体性・人権を無視した思想である。
 こんな状況が開けたのは戦後になってすぐれた治療薬が使われるようになってからだ。この治療薬のおかげで不治の病だったハンセン病は容易に治る病気になった(この容易に治るというのは特に強調しておく。症状がひどくなる前に薬を使えば後遺症もなく完治するのだ。症状がひどくなっても後遺症が残る程度でやはり完治する。)が、隔離収容政策はまったく変わらない。いつまでも長々と他人にうつし続ける悪質な感染症としての対策が取られ続けた。実際は感染性はきわめて弱いのだが。そこを入所者の戦いで改善させていき、やがて隔離政策の撤廃に至らしめた。1996年、「らい予防法」廃止。ここに明治以来にわたる隔離収容政策が終結する。
 展示をすべて見終えて、ハンセン病の患者はかつてほとんどすべての人権が抑圧されていたことを知った。個々の人権の侵害という枠では捉えきれないほどだ。

 資料館を出てふたたび人権の森に戻る。今度は望郷の丘、全生学園跡を見た。そこから宗教施設群を横目に見ながら正門に戻ってきた。隔離された小さな社会、そこに閉じ込められた命があったことを思い知る訪問だった。

 今パソコンの前に座ってこれらの凄惨な人権侵害を過去のものと言い切れるかというとそうではないことを感じる。もっとも至近の例で言えば福島第一原発事故からの避難住民の6割が遺伝的影響を心配しているというニュースである。私はここにかつてのハンセン病に対する偏見の相似形を見る。ハンセン病の者が親族にいればそれは親族中に広まる、だからハンセン病にかかった者が親族にいる者とは結婚などはしてはいけないという偏見が存在していた。これとまったくの相似をなしていることに賢明な読者の方ならお気づきだろう。実際にはハンセン病の患者さんが親族にハンセン病を広めることはほとんどない。同様に避難してきた住民に遺伝的影響はまずないとされている。
 また、ゼロリスクでなければならないとする意見もまたハンセン病に対する偏見と相似をなしている。大島青松園入園者自治会編による「閉ざされた島の昭和史」に収録されている和泉真蔵氏の「人間回復の橋」にはこうある。

 ところで、統合を進める場合、真先に問題になるのはハンセン病の伝染性である。「ハンセン病の伝染性は極めて弱いものです」という説明では、人々は決して納得しない。それは、一般の人々が『万一』を恐れ、対策に「万全」を求めるからである。かつて、「ハンセン病ほど悲惨な病気はない。こんな病気に罹る人は一人も無くさなければならない。」と絶対隔離論者が言い、今また、「万に一つにも伝染の恐れのない無菌者は一般病院に受入れるべきだ」とハンセン病の“理解者”が主張する。この二つの主張は、共に実現不可能な『万全』をハンセン病対策にだけ要求する点で驚くほど良く似ている。これこそ偏見である。
 私の試算では、日本の全ての患者が社会復帰したとしても、国民がハンセン病に罹患する危険は数百万分の一増加するに過ぎず、事実上ゼロに等しい。このことは、わが国においては、ハンセン病は最早や伝染病ではなくなり、らい予防法もまた、存在の根拠がなくなったことを意味している。

 放射線対策にだけ実現不可能な「万全」を求めてはいないだろうか。今風に言えばゼロリスクである。この文はそのようなゼロリスク信仰を見事に批判し切っている。この文の対象はハンセン病だが、これを放射能に変えれば十分にそのまま通用する。
 最後に、ネットの一部で主張する者がいる生活保護の施設収容保護案なるものに少しだけ触れる。生活保護者の如き人間は施設に収容しないとならない、維持管理は生活保護者にやらせればいい、そうすれば安上がりであるという論である。もちろんこんな論を唱えている者はごく一部ではあるが、しかしここであげられている構想はハンセン病強制隔離政策と瓜二つである。強制隔離の過ちを再び繰り返してはならないのだ。
 こうしてみてきたようにハンセン病強制隔離のあやまちは今も決して過去の遺物として忘れ去っていい問題ではないことがわかる。むしろ今なお同様の問題が対象を変えて発生していて、常に理性を働かせてこのようなあやまちを犯さないようにしなければならないということである。そのような理性に人権の森は訴えかけ続けていくことであろう。
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テーマ:人権 - ジャンル:政治・経済

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ブログ名変えた(2011.4.24)。落ち着かないなあ。

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