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■山崎正友に対する恐喝罪被告事件第一審判決「第一章」

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理由
第一章 認定事実
第一節 被告人の経歴及び本件犯行の背景事実
一 被告人の経歴
 被告人は、京都大学法学部を卒業し、二年間の司法修習を経て、昭和三九年四月、東京弁護士会に弁護士登録をした者である。被告人は、大学に在学中の昭和三四年一〇月に創価学会(以下「学会」という。なお後記三1参照。)に入会し、学生部グループ長、同部常任幹事、副学生部長等を経て、昭和四四年六月には学生部主任部長、学会副理事長の職に就き、同四五年三月ころのいわゆる言論出版妨害問題によりいったん役籍名簿から抹消された後、同年五月、学会顧問弁護士となり、昭和五二年三月には総務、同五三年三月には参事、同五四年五月には本部参与と再び学会内の役職に就くとともに、同月、日蓮正宗管長(以下「法主」ともいう。)から日蓮正宗大講頭に任命されたが、同五五年三月、学会顧問弁護士、本部参与及び日蓮正宗大講頭をそれぞれ辞任した。
二 被告人が関与した事件処理その他の事務
 被告人は、顧問弁護士として学会の会則又は規則の整備、組織運営に関する法律問題の検討、日蓮正宗総本山大石寺正本堂建立御供養金返還請求訴訟その他各種事件の処理、富士桜自然墓地公園(以下、「富士宮墓苑」という。)造成許認可手続等を担当したほか、新日本宗教者連盟、妙信講、創価学会対策連盟等の反学会勢力との紛争処理、日蓮正宗との間の調停等にも関与した。
三 いわゆる宗門問題及びこれを基盤とする被告人の反学会活動
1 宗教団体創価学会は、昭和五年創価教育学会として創立され、昭和二一年三月名称を創価学会と改称した団体であり、宗教法人創価学会は、昭和二七年認可を得て設立された法人であって、いずれも日蓮正宗の教義に基づき、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、日蓮正宗総本山大石寺(以下「本山」という。)に安置されている大御本尊を信仰の根本とし、日蓮正宗を外護し、弘教及び儀式行事を行い、会員の信仰の深化、確立をはかることによって日蓮大聖人の仏法を広宣流布することを目的とする日蓮正宗の信徒の団体である(以下、この両者を併せて「学会」という。)。学会は、昭和二七年に宗教法人としての認可を得るにあたり、宗門(日蓮正宗の意。)から、(一)折伏した人は信徒として各寺院に所属させること、(二)宗門の教義を守ること、(三)仏・法・僧の三宝を守ることの三原則を遵守するよう求められ、以来、この原則を踏まえて、宗門の外護及び日蓮正宗の広宣流布にあたることとなった。
 その後、学会は、急速に会員を増やし(昭和二六年には約五、〇〇〇世帯、同三二年には約七五万世帯、同四五年には約七五〇万世帯)、自らの組織及び活動を拡張するとともに、宗門に対しては各地に寺院を建立して寄進し、また昭和四七年竣工の本山正本堂建立の主力を担うなど、宗門の興隆に寄与するところが大きかった。
2 ところが、昭和四八年ころから学会の方針又は学会幹部若しくは学会員の言動等が法主の忌詩に触れ、宗門の批判を招くことが多くなった。その主な要因は、(一)学会内部において、池田大作学会会長に対する敬愛、忠誠の情が誇張され、同会長が会員の信仰生活上特別の地位を占めるようになり、幹部の教説の中にも種々の仏法用語等を用いて右の点を強調する傾向が顕著となったため、宗門内に、右学会幹部の教説は地田を本仏視(いわゆる「
会長本仏論」)し、日蓮正宗の教義を逸脱するものであるとの批判を生じたこと、(二)学会においては、本山正本堂の建立以降、各地の会館を整備、充実し、これを中心に、本山及び日蓮正宗各寺院に対する自立性を保ちつつ、会員の指導、宗教的な行事その他の活動を行うことを重視する施策を推進していたところ、その結果、会員である信者を会館と寺院のいずれの行事に出席させるか等をめぐり、各地で、学会の地方幹部等と僧侶との間で紛争を生ずることが多く、宗門からは、学会側は寺院を軽視し、僧侶を侮辱しているとして激しい怒りを買ったこと、(三)学会の会員に対する指導又は学会幹部等の言説中に、宗門から教義の逸脱と批判されるものがあったこと等にあった。
 右のあつれきは、昭和四九年五月から七月ころにかけて最高潮に達し、同年九月に「学会が誘法の自戒を誓ったので今後は追及することがないように。」との日蓮正宗宗務院達が出されて一段落した。
3 しかし昭和五二年一月、池田会長が学会教学都大会における「仏教史観を語る」と題する講演において(一)学会は出家、在家両方に通じる団体である、(二)在家の身であっても供養を受けられる、(三)学会の会館、研修所も近代における寺院であるなどと述べるとともに、そのころから学会が前記2(二)の施策を一段と強力に推進し、また、学会に対して批判的な言動のあった僧侶に対し学会側が激しく謝罪を要求し、「つるし上げ」的な行動に出ることがあったりしたため、学会と宗門の対立はにわかに激化し、これに関する記事が週刊誌等をにぎわすこととなった。
 右の状況の下に、宗門では同年九月傘下の僧侶に対し「宗祖日蓮大聖人第七百遠忌にあたり寺檀和合を必要とする時期に、週刊誌等において宗門と学会の離反が宣伝されたのは遺憾である」旨の管長親書を発し、学会でも事態の収拾に動いた結果、同年一二月四日宮崎県定善寺において池田が日達法主に対しこれまでの学会側の行き過ぎを謝罪(いわゆる「御寛恕願い」)し、日達もこれを受け入れ、学会は同月六日の全国県長会において「僧俗和合」をうたい、「学会員は僧侶を理解し宗門外護の原点に立戻るべきである」旨を強調する見解を表明し、宗門も昭和五三年一月二日の管長訓諭において「宗祖第七百遠忌に向けての僧俗和合」を宣明し、ここに両者の和解が成立したかに見えた。
4 ところが、同月一九日、反学会的な立場の若手活動家僧侶(以下、「活動家僧侶」という。)を中心とする僧侶約一四〇名が本山に登り、日達法主にお目通りした際、被告人は、右活動家僧侶の一人浜中和道を通じて日達に一通の書面を提出し、日達は、右書面を「ある信者からの手紙」として朗読させて全員に披露した。右書面(以下「ある信者からの手紙」という。)の内容は、(一)学会の「会長本仏論]は池田が側近等を用いて自ら作り出し
た教説であること、(二)池田ひいては学会の目的は来る二〇年間に天下をとることにあるが、宗門の有する宗教的権威は右目的を達する上で重大な障害となると考えられていること、(三)そこで学会は宗門に対し「外護」という大義名分の下に強圧と懐柔などのあらゆる手段を用い、宗門の信者及び社会との直接の交流を極力封ずるとともに、宗門内部の弱体化をはかり、学会教学・学会路線を推進しようとしていること、(四)したがって、昭和五二年一月以降の学会の宗門に対する態度は決して一時の行き過ぎというものではなく、用意周到に計画された路線であり、宗門を力で押さえつけ、最終的には法主を退座させることを目的とするものであったこと、(五)ところが、同年八月からマスコミの攻撃を受け、内部の造反も生じたため、学会の右路線は一時挫折し、宗門に頭を下げざるを得ない破目となったものの、学会の宗門に対する謝罪は上辺だけの見せかけであり、学会幹部はひそかに、日蓮正宗宗務院の中枢をすでに握っているから、あとは法主を上手にまるめ込み、その権威を利用するとともに、日蓮正宗末寺に十分な供養を行い、僧侶の不満を宥めつつ時期をうかがい、マスコミ等による外部的な危機が去ったときは、再びすさまじい報復と弾圧を宗門に加えようと考えており、事実、池田は同年九月以降「必ず仇をとる。」とわめき続けていること等の内容を煽情的な文章で記述した上、以上のような学会の路線に対し宗門側のとるべき道は二つしかない、一つは何もせずに学会の主導権を許し、やがては学会に吸収されることに甘んじることであり、いま一つはここ二、三年の内に決着をつける戦いをすることであると断じ、宗門が学会と戦いをする場合の戦略を具体的に提示したものである。
 そこに提示された戦略の骨子は、(一)学会の教義逸脱等を徹底的に追及し、その改善のためとして学会がとうてい受け入れられないような要求を最後通告の形で突き付けること、(二)各寺院において早急に信者を組織化すること、(三)理論武装用のパンフレット等を作り、「僧侶有志」名義で五〇万部位を各方面に配布すること、(四)宗内の態度のおかしい僧侶を粛清すること、(五)折をみてマスコミの取材に対しはっきりとしたコメントを出すこと、(六)法華講青年部を集めて轍を発し、戦闘に参加させること、(七)以上のようなことを大多数の僧侶の意見具申に基づくという大義名分の形を作って決定し、個々の僧侶が表面に立って攻撃にさらされないよう配慮すること等であった。右のように、日達が「ある信者からの手紙」を披露したことを契機として、活動家僧侶を
中心、とする宗門内の反学会の気運は再び昂まった。
5 昭和五三年二月九日、本山に宗会議員、宗務院の役員、全国の支院長、活動家僧侶の代表等が参集し、法主も臨席して開かれた集会(時事懇談会)において、宗門の学会に対する態度について協議が行われ、(一)昭和五二年一一月に学会から内示された「僧俗一致の五原則案」は学会に突き返し、これに対して宗務院において準備した回答は出さないものとすること、(二)宗門として、全国の教師(住職の資格を持つ僧侶)から「学会と手を切るか否か」との間を含むアンケートを取ることなど学会に対する強硬な方針を決定した。
 右決定に驚いた池田は、昭和五三年二月一二日及び一四日、日達にお目通りし、右アンケートに関する配慮等を懇請した結果、日達の決断により、右アンケートは「宗門が学会と協調して一緒にやっていくためにはどうしたらよいか」という問にとどめることとし、同年三月、宗務院は右アンケートの回答結果を基に学会との「協調案九項目」を作成し、これを同年四月上旬ころ学会に提示するはこびとなった。
6 同年三月下旬ころ、被告人は、日達にお目通りをし、池田の謝罪は本心からのものではなく、将来必ず巻き返しがあることを強調した上、今後宗門が学会に対し取るべき戦略について「今後の作戦」と題する書面を基に進言した。その骨子は、戦略を(一)現状のままで押す方法、(二)一時休戦をして将来の戦いに備える方法及び(三)以上の中間の方法に大別した上、(一)現状のままで押す方法をとる場合には、(1)宗門側の大義名分を明らかにし、学会がこれまでの態度を改めなければ、これと手を切るほかはないという態度を宣明すること、(2)各寺院でさらに積極的に「檀徒作り」(日蓮正宗信者を学会から脱会させ、寺院の「檀徒」として組織すること。)を進めること、(3)同年五月未か六月上旬ころに、法主が学会の教義上の逸脱を徹底的に破折する指南を行い、これを学会の機関紙に掲載させるとともに、院達、宗門の機関誌等によって周知徹底させること、(4)状況によっては、信
徒のグループ数百名の集会を東京で聞かせ、学会を礼弾させること、(5)一定の段階で僧侶は表面から引き、信徒団体を表に立てて戦うようにし、そのために、信徒団体の組織化を強力に進め、これに戦闘力をつけること、(6)以上のようにして、学会側が一切を法主の裁断にゆだねるに至るまで戦いの手をゆるめず、檀徒作りを推進していくこと等の作戦によるべきであり、この場合、学会は三年以内に崩壊せざるを得なくなろうとし、次に、(二)学会に対し教義上の訂正及び運営上の改善を求める条項を提示し、これが学会がのめば一時休戦する方法も考えられるが、この場合には、(1)将来の戦いに備えて休戦までに檀徒作りを積極的に進め、十分な数の信徒を獲得し、(2)休戦中における信徒の保護及び僧侶の地位の確保に万全を期し、(3)学会の教義上の訂正を宗内外に明示するとともに、学会に必要な制約を課するに足りる条項作りとその実行を確保するための制度作りを行う等の必要があり、学会に条項を提示する時期は本年五月下旬から六月上旬ころが適当であるとし、さらに、(三)学会に対し教義上の訂正のみを求める条項を提示し、学会がそれを入れれば一応休戦した上、ボルテージをおとした形で徐々に檀徒作りを進めていくという右(一)と(二)の中間的な戦略も考えられるが、この場合も条項提示の時期は本年五月下旬から六月上旬まで待つべきであり、その間に檀徒となったメンバーを固める必要があるとし、結局、以上(一)、(二)及び(三)の各作戦を時と情勢の推移により組み合わせて使うのが適当であり、具体的には、当面本年五月下旬から六月上旬ころまでは(一)の方法でいき、そのころ学会が紛れのない形で内外とも反省の色をみせたら(二)の方法をとり(これに関する判断の資料は右時点で被告人が提出する。)、また、仮に宗門として一気に畳み込むほどの態勢にないと判断されたときは、(三)の方法でいくが、多くの意見が(一)の方法に傾き、諸情勢が有利と判断されたときは、それで押すこととし、なお、その後も学会側の出方等に応じて作戦を変えていくのが適当である、というものである。
7 日達は、同年三月末ころ、宗務院に対し、考えるところがあるから学会に前記協調案を提示することをしばらく見合わせるよう指示した。
 その後、宗門の各寺院において、活動家僧侶を中心に「檀徒作り」運動が活発化し、これら僧侶は毎月一四日に各寺院で催されるお講の席上、激しい学会批判、学会攻撃を行った。
8 北條浩理事長等学会首脳は、右のような苦境に直面して、早急に宗門との関係を修復しなければならないと焦慮していたところ、被告人から宗門との問題解決のためには活動家僧侶と話合いを行う以外に途がなく、自分がその話合いのパイプ役となり、宗門との調停にあたるべき旨の申出があり、協議の末、同年五月八日ころ被告人に右調停を依頼することとなった。
9 被告人は、大石寺内事部の光久諦顕及び活動家僧侶の中心人物である佐々木秀明等を通じて宗門及び活動家僧侶らの意向を汲みつつ調停にあたり、その結果同年六月八日、西宮の堅持院において活動家僧侶と学会の若手幹部が教学上の問題について話合いを行い、これを基礎に、同月一九日、宗務院が学会に対し教学上の逸脱と認むべき三四項目を指摘する質問書(「創価学会の言論資料について」)を送付し、同月二七日、学会がこれに答える形で「教学上の基本問題について」と題する見解を表明し、その中で従来の教学上の逸脱を訂正
し、同月三〇日、これを学会の機関紙である聖教新聞に掲載した。
10 しかし、右六月三〇日以降においても、活動家僧侶を中心とする「檀徒作り」運動、「お講」の席における学会批判、学会攻撃は止むことがなく、また、活動家僧侶の一部は「檀徒総会」の企画を法主に上申してその了承を得た上、同年八月二六日、本山において第一回の「檀徒総会」を開催し、(一)池田日蓮正宗大講頭罷免の署名運動を行うこと、(二)いわゆる「特別財務」(学会への寄付の一種)の返還運動を行うこと、(三)学会員を再折伏すること等の方針を決議した。11なおこの間、週刊誌等に、学会の内部資料である「社長会記録」及び「犯罪者リスト」、池田が側近らの前で幼児の顔にマジックインクを塗ったとされるいわゆるマジック事件の写真などを題材とした学会に批判的な記事が掲載された。
12 右のような状況の下で、被告人は、引続き学会と宗門の調停にあたり、同年九月一四日、大分県寿福寺における活動家僧侶と学会若手幹部による会談を実現させ、また、同月ころいわゆる「本尊模刻事件」が問題化した際にも、速やかに周旋に動き、右事件は同月末ころ問題の本尊を本山奉安殿に納めることで一応の解決をみた。
13 一方、被告人は、心臓疾患等に悩む日達に同年五月ころ専門医を紹介し、日達の通院日には被告人も必ずその病院に赴き、日達に会って直接話をかわす機会をもつなど、いっそう同人に親近した。
14 被告人は、同年九月末ころ、日達に対し「現下の状勢について」と題する書面を提出した。この書面は、現在の状勢は宗門側にとってきわめて有利に進んでおり、特に宗門側の「檀徒作り」が学会組織に大きな痛手を与えているが、学会側はここに来て事態を正視し、思い切った転換を覚悟しつつ、なお池田体制とこれまでの学会の地盤だけは保守しようとする決意を固めているので、いよいよ重大な段階に差しかかっている、と前置きした上、まず学会内部の事情を解説し、学会は本年一一月に総会又は臨時幹部会を開き、池田の提案により事態収拾策を決定する方針であり、その内容としては、(-)会長の権限縮少(二)池田の正式陳謝(三)寺院の独自性の尊重と外護の確約(四)教義面での明確な路線変更等が痍討されているが、学会側の根本的な狙いは第一に池田体制の実質的温存であり、第二に組織防衛であって、右のような譲歩と引きかえに、法主の暖い言葉を引き出し、これを盾に宗門側の「檀徒作り」という名の組織攻撃をくい止めることが学会側の今回の作戦の最大の眼目である旨を述べ、次いで宗門側については、戦線が拡大し、宗論が固まりつつあることは有利であるが、反面、戦線に乱れや矛盾が出ているとして、いくつかの問題点を指摘し、いま戦線を点検、統一、整理する必要があると説き、結局、今後の作戦として、(一)本年一〇月及び一一月中は各末寺でいっそう拡大した「檀徒作り」を進めること、これは学会との和解後は運動が制約される点からも、一一月の学会の後退を思い切ってやらせるためにも是非必要なことであるから、かなり行き過ぎても構わぬくらいの覚悟で徹底的に行うこと、そのため、活動する僧侶の数を増やすとともに、地域ごとに状況をチェックし、法主から個々に推進していただくこと、(二)学会の和平工作に対しては「政治ではない、信仰である。」「学会の出方を見て決める、これが最後のチャンスである。」「宗門内の若手が納得する修正をして貰いたい。」という厳しい態度で貫くこと、(三)一一月に学会が然るべき姿勢を示したときは、宗門としても一応和平に応じざるを得ないが、その後も「檀徒作り」は続けること、(三)和解後も、信者の自立的な行動による学会追及は宗門と一線を画した形で進め得ること、(四)宗門においては、一一月以降、宗内の新体制の確立、早瀬・阿部路線(早瀬日慈宗務院総監、阿部信雄同教学部長を中心とする宗内行政)の明確な排除を推進すること、(五)外部との渉外も積極的に行うこと等を提言し、なお、宗門において「檀徒作り」をやめない限り、学会側は我慢し切れなくなって再び仕かけてくると思われるが、その時期は七百遠忌の前後であろうと予測し、最後に「宗門としては、檀家作りとその完全な掌握が根本的な生命線になりますが、そのためにはやはり、すぐれたオルガナイザーの出現をまたなくてはなりません。半年一年もして、そういう人が出てこなければ、私も覚悟を決めなくてはならないと思っています。」と記載したものである。
15 その後、宗門と学会の折衝が進み、結局、同年一一月七日、いわゆる「お詫び登山」という形で和解が成立した。
 すなわち、学会は、同日、本山大講堂において、日達以下多数の僧侶の列席を得て代表幹部会を開き、北條理事長がここ数年の学会の路線に行き過ぎ等のあったことを指摘、反省し、(一)会員に対し寺院参詣の重要性を十分指導していくこと、(二)「お講」や彼岸法要などの寺院の行事を尊重し、学会の行事、会合がそれらの寺院の行事に影響を与えないよう配慮し、春秋彼岸会及び孟蘭盆会の学会としての開催は地方では一切行わないようにすること等の方針を宣明し、次いで辻武寿副会長が教学の基本を確認した上、池田への敬愛の情を表すのに行き過ぎた表現は避けなければならないこと、本来仏にのみ用いる言葉を自分たちの立場にあてはめることを厳に慎むこと、本年六月三〇日付聖教新聞に掲載した「教学上の基本問題について」を今後の学会の教学の展開の規範とすること、教学上の重要な問題は宗門の教学部に検討、指導を仰ぐこと等の方針を明らかにし、最後に池田会長が、先程来の北條、辻等の話は学会の各機関の全員一致の決定であり、会長である自分自身の決意であると述べた上、これまでいろいろな問題について行き過ぎがあり、宗内を騒がせ、またその収拾にあたっても不本意ながら十分な手を尽せなかったことに、総講頭の立場にある者として陳謝の意を表したものである。
 なお、右「お詫び登山」の際、学会は、学会規則を改正して会長職を任期制にするように宗門から求められて検討を約し、学会顧問弁護士八尋頼雄を中心に、右改正作業を進めることとなった。
16 しかし、活動家僧侶は、その後も「お講」の席上での学会批判や「檀徒作り」運動をやめず、昭和五四年一月には第二回檀徒大会が開かれ、池田の総講頭罷免を要求するに至った。
 さらに同年三月六日に学会副会長福島源次郎が福岡県大牟田で行った指導で「正本堂ができたので登山者がなくても本山はやっていける見通しがついた。」「池田本仏論は僧侶がやっかみから邪推したものだ。」「本山は旅館業で収入がある。」などと発言したことが問題化し、宗門内の学会批判はいっそう強まり、また同月三一日、法華講が池田講頭辞任勧告を決議し、学会は窮地に立った。
17 このような状況の中で、同年四月六日ころ、池田は、総講頭を辞任し、会長を勇退する決意を固め、同月二二日、総講頭辞任を日達に申し出、同月二四日には池田の会長勇退及び名誉会長就任並びに北條の会長辞任が公表された。
 日達は、同月二八日、本山に全国僧侶の代表者を集め、池田が勇退し今後いわゆる「院政」をしくこともない旨の学会からの申出があったので、これを受けて和解するとの方針を内示した上、同年五月一目、院達を出して(一)「お講」の席の説法で教義以外の話をしてはならないこと、(二)学会員が希望しない限り、これを檀徒となるよう働きかけをしてはならないこと等を指示した。
 また、同月三日に開催された学会の本部総会に臨席した日達は、今後信徒団体としての基本を忠実に守り、宗門を外護することを希望するとともに、これまでのことはすべて水に流して僧俗和合していきたい旨を述べた。
18 しかし、その後も、活動家僧侶及びいわゆる「檀徒」の激しい学会批判は収まらず、同年四月二八日から新たに檀徒の機関誌として「継命」が刊行されることとなり、その誌上でも池田批判、学会批判を展開した。
19 同年五月上旬ころ、被告人は、北條及び秋谷栄之助副会長に対し、「日達が、学会の方で被告人をどう処遇するか、被告人が学会の中で幹部でいてくれると安心できると言っている。」旨を述べ、暗に副会長のポストを要求し、また、北條に対し、「若手僧侶が、池田は院政をしき学会は前と少しも変らないと騒いでおり、日達も、若手が騒ぐから池田の行動は目立たないようにしろと言っている。池田は名誉会長になったのだから、会合への出席は控えるべきであり、聖教新聞にも当分の間写真や記事は出さない方がいい。」旨を述べ、聖教新聞紙上の池田に関する記事は自分がチェックするなどと申し出た。
20 右のような状況の中で、同月一四日開催された第一回最高教導会議の席上、日達は、北條会長、森田一哉理事長、和泉、辻、秋谷各副会長とともに被告人に大講頭の辞令を授与した。
21 同年七月二二日、日達が死亡し、その後、日蓮正宗教学部長であった阿部日顕が新たに法主に就任した。
22 被告人は、同年八月及び九月ころ、二、三回登山して日顕にお目通りし、献言するところがあった。
 しかし、同年九月二五日ころ、日顕は、被告人の右献言を信用できないとして斥けた。
23 宗門は、同年一〇月八日、院達を発し、僧侶に対し学会の過去の誤りの批判及び「檀徒作り」を制止するとともに、学会に対し「六・三〇」(教学上の基本問題)及び「一一・七」(お詫び登山)の趣旨を全国の学会員に徹底することを求めた。
 日顕は、前法主日達に比し学会に対し穏やかな態度で臨むもののように見られたが、宗門内では、日達の直弟子を中心に学会に批判的な僧侶の勢力が強く、活動家僧侶の学会批判も活発であって、今後、宗門の学会に対する態度がどのように動くかは、なお予測し難い状況にあった。
24 右のような状況の中で、同年八月から九月にかけて、学会の教学部長原島嵩は、聖教新聞社内で学会の機密資料を大量にコピーした。被告人は同年九月二一日ころ、自己の運転手等を使い、原島から右資料コピーの引渡しを受けて被告人の事務所に運び込んだ上、そのコピーを二部ずつ作成して事務所に保管した。
 なお、被告人は、原島から右資料コピー(以下「原島資料」という。)の引渡しを受けた際、右運転手を介して現金数十万円を原島に交付し、また同年一二月上旬ころにも、同様に現金一、〇〇〇万円位を原島に交付した。
25 被告人は、同年一〇月から一二月ころまでの間、毎日新聞記者内藤国夫に頻繁に接触して学会内部に関する情報等を提供し、同年一一月二〇日すぎから一二月ころにかけて、前記原島資料の一部(昭和四九年五月一〇日付「本山の件」及び同年六月一八日付「宗門の件」と題する北條の池田宛報告書-いわゆる「北條報告書」一並びに「池田語録」を含む。)のコピーを交付した。
 また、被告人は、同年一〇月ころ以降、活動家僧侶の中心人物である山口法興等に対しても、原島資料の一部のコピーを交付した。26 被告人は、同年九月ころ、いわゆる「特財返還訴訟」について、前記山口等と相謀り、自らその訴状原案を作成し、訴訟関係者等の集会に輩下の鹿野輝夫を出席させてその模様を視察させ、原告の訴訟代理人となるべき弁護士を選んで前記山口等に紹介し、右弁護士に対する報酬を一時立替え、さらに右訴状のタイプを自己の事務所で行い、訴訟提起時の記者会見のための原告側の声明文を起草するなど、右訴訟に深く関与した。
27 そのころ、全国的に、同年一〇月七日に予定された衆議院議員選挙について学会員が公明党関係の候補者のために選挙運動を行うことを「諦法」として非難する文書(いわゆる「誘法ビラ」)が「檀徒」等の手で大量に頒布されたが、被告人は、これにも関与し、自ら右文書の原稿を起草した。
28 同年一一月一三日、都内妙真寺の「お講」の席上、住職である前記山口が前記「北條報告書」二通を読み上げた。
 その後、右「北條報告書」のコピーが活動家僧侶等の間に大量に頒布されたほか、「継命」は同年一二月一日号の紙面に右報告書を掲載して特集記事を組み、また、雑誌週刊サンケイの同月一三日号及び同週刊ポストの同月一四日号も大々的にこれを報道した。右「北條報告書」の公表は、学会幹部及び多くの会員に大きな衝撃を与えるとともに、活動家僧侶等の学会批判を盛り上げるのに力があった。
29 その後、昭和五五年に入ってからも、活動家僧侶を中心とする「檀徒作り」運動及び「お講」の席での学会批判は活発に行われた。
 学会は、前記「お詫び登山」に示したところに従い、会員が寺院に参詣するよう勧める方針をとっていたが、会員が寺院に参詣すると僧侶から学会批判を聞かされるという事態が各地で生じ、学会の地方幹部が、学会の方針と会員の苦情の間で板ばさみとなって苦しむような状況となった。
30 以上のような経緯の中で、北條等学会首脳は、被告人の反学会活動について、次のように認識していた。
 (一) 昭和五三年一月一九日の「ある信者からの手紙」(前記4参照)については、当時宗門僧侶の話として伝えられたところや、右書面の内容、文体、その後の被告人の言動等から、被告人がこれを執筆したものと考えた。
 (二) 同年五月、被告人に宗門との間の調停役を依頼する際(前記8参照)も、被告人が活動家僧侶と結託しているのではないかとの疑いを抱いていた。それにもかかわらず被告人に調停役を依頼したのは、右疑いを裏付ける決定的な証拠がなかった上、同年三月末ころ以降宗務院が宗門と学会の交渉の窓口としての機能を事実上喪失し、被告人以外には日達や活動家僧侶に有力なルートを持ち、調停にあたれる者はなく、また被告人としても自らの申出に基づき学会からの依頼により調停にあたるからには学会の立場を守って調停してくれるであろう(少なくとも裏でこそこそ画策されるよりは、表の舞台を与えてはっきりやってもらった方がよい)と判断又は期待したためであった。
 (三) 被告人の「調停」により同年六月三〇日の教学上の逸脱の訂正等を行った(前記9参照)にもかかわらず、宗門との関係に修復のきざしがなく、活動家僧侶による学会攻撃も止まなかった(前記10参照)上、そのころ学会男子部長溝口隆三から、被告人が同人に日達の診断書等を示して「学会から調停を依頼されて最初にしたのがこれだ。これで目達の心をつかんだ。」などと日達の特別の信頼を得たことを自慢した旨の報告があり、また光久からの話として、池田が日達にお目通りをし、なごやかな零囲気で別れた後、必ず被告人から「学会側の反省は本心ではない。」旨の電話がかかってくることが伝えられたりしたため、いっそう被告人に対する前記(二)の疑いを強めた。
 なお、そのころの週刊誌の記事(前記11参照)に関しても、被告人が情報を流しているのではないか、との疑いをもった。
 (四) 池田会長勇退直後の昭和五四年五月ころには、被告人が日達の権威を背景に強い発言をし、また現に日達から大講頭に任命されるということがあり(前記19、20参照)、被告人が日達の篤い信任を得ていることを改めて印象付けられた。
 (五) 日顕が法主に就任した後の同年九月、日顕から被告人の献言(前記22参照)が伝わり、被告人が新法主に取入り、新法主と学会との離間をはかろうとしているものと考えた。
 (六) 同年一〇月末又は同年一一月初めころ、溝口から、前記原島資料らしいものが被告人の事務所にある(前記24参照)旨の情報がもたらされた。そのようなこともあって、同月一三日、妙真寺で山口が読み上げた「北條報告書」(前記28参照)も、被告人から山口に流されたものと推測した。
 また、同年九月ころの「特財返還訴訟」(前記26参照)にも被告人が関与しているとの情報を得た。
 学会首脳は、同年一一月当時、右のように被告人が活動家僧侶等と結び、マスコミをも利用して学会攻撃を行っているものと考えたが、被告人に対し、処分等の措置をとれば、被告人をいっそう反学会側に追いやり、事態を悪化させるものと考え、被告人を宥め、暴発を止めたいという気持が強かった。
 学会は、右のような判断から被告人に対し断固たる統制上の措置をとらず、むしろ被告人の要請に従って株式会社シーホース(以下「シーホース」という。)への資金援助を行うなどした。なお、シーホースは、被告人が昭和五一年一一月ころから自らの責任で経営している会社である。
四 昭和五四年一一月末以降の状況
1 被告人は、昭和五四年一一月二八日から数回にわたり池田と面談した結果、前記のような厳しい状況下で被告人を突き離すのは得策ではないと考えた池田の説得により、その後は学会攻撃をやめ、池田の側近にあって働くこととなり、同月末には、前記内藤と池田を引会わせた上、内藤による池田インタビュー(月刊現代昭和五五年四月号掲載)を実現させ、また、昭和五五年一月には、学会の海外組織である創価学会インターナショナルの組織運営に関する規約改正について宗務院との折衝を担当するなどした。
 他方、池田は、被告人がシーホース経営に苦慮していることを聞き、昭和五四年一二月三日、二、〇〇〇万円を被告人に贈り、北條も、池田の右意向をくみ、同様の考えから被告人の要請に従い、シーホースの資金援助として、同年一一月三〇日に二、〇〇〇万円、同年一二月二一日及び二七日に各五〇〇万円、昭和五五年一月二一日に一、三〇〇万円を被告人に供与した。
2 同月二四日、被告人はさらに北條に対しシーホースへの三、〇〇〇万円の資金援助を要請した。北條は、これまでの経緯から、ここで被告人の要請どおり金を出しても、さらに次々と資金援助を要請してくるに違いないので、この際多少多目に出しても、今後一切出さないよう区切りをつけるのがよいと考え、被告人に対し「学会としても筋の通らない金だから、そんなに度々は出せない。これから先どの位必要なのか。」と尋ねたところ、被告人は、「実は一億円欲しいのです。それだけの金があれば大丈夫です。」と答えた。
 北條は、被告人の右要求を池田に報告した上、同月二五日、森田理事長、秋谷、和泉、山崎尚見各副会長と協議したところ、シーホースは学会とは何の関係もないのだから援助してやる理由も必要もないとして反対する意見が強かったが、北條は「このような厳しい状況だから、被告人の要求を断ると、どんな暴発をするか分からない。」などと述べて森田等を説得し、結局、右要求には応ずるが、その際、(一)今後絶対に学会攻撃をしないこと、(二)シーホースと学会とは無関係であること、(三)今後はシーホースに関し一切金を要求しないことの三点を文書にして被告人に確認させることを条件とすることで、ようやく了承を得た。
 同月二九日、北條及び山崎が被告人と会い、「富士宮墓苑会計から報酬名目で一億二、〇〇〇万円を出す。一月末に三、〇〇〇万再を出し、残額は三月までの分割払いとする。報酬というのは名目で、本当は学会の被告人に対する好意としての支出である。ついては、これまで墓苑報酬として支出した分も含めて、これで終りという書面を作っておきたい。また、シーホースは学会とは何ら関係のないことを書面上明確にしておきたい。それから今後一切学会攻撃はするなよ。そのような書類を作っておくので、それにサインしてもらいたい。」との条件を示し、被告人はこれに同意した。
 同月三一日、学会から被告人に三、〇〇〇万円が支払われたが、その際、学会側は、被告人に対し、(一)今回墓苑報酬として支払われる金員は被告人及び被告人の関係する会社に対する学会の好意による支援であること、(二)被告人は学会に対し忠誠を誓うこと、(三)右会社は被告人独自の判断と責任で設立し経営するもので学会とは関係のないことを確認する旨の念証の提出を求め、被告人は、右念証に署名、押印した。
 その後、同年二月六日に、二、〇〇〇万円、同月二五日に三、〇〇〇万円、同月二九日に三、〇〇〇万円がそれぞれ学会から被告人に支払われた(なお、残り一、〇〇〇万円は、右墓苑完成時に被告人の家族に渡すとの約束がなされた。)。
3 一方、昭和五五年に入った後も、活動家僧侶を中心とする「檀徒作り」は収まらず、「檀徒」も同年初めから従来月一回刊であった「継命」を月二回刊にするなどして学会批判を続けた。
 同年一月ころ以降、学会首脳部の許には、活動家僧侶及び「檀徒」の動き等について、(一)活動家僧侶らが、宗内の中間派又は穏健派の僧侶に対しても学会批判活動に参加するよう働きかけて、右活動の拡大をはかるとともに、同年三月末ころから六月末ころまでの間に施行予定の宗内の議決機関である宗会選挙で活動家僧侶派の議員が多数を占めるべく、運動を行っていること、(二)「檀徒」らは、同年一月二六日に本山で「第四回檀徒大会」を開催し、その後各地でいっそう組織化した活動を行っていること、(三)そのころ活動家僧侶や「檀徒」の間では、池田の宗門からの追放又は学会の解散というような強硬な主張や宗門の法主の地位と管長の地位を分離すべきだ、との意見が唱えられていること、(四)同年二月一八日、活動家僧侶の集会が開かれ、(1)来る宗会選挙において活動家僧侶派から定員一杯の一六名の候補をたてることを決めるとともに、(2)右選挙に臨むスローガンとして、(イ)池田名誉総講頭・日蓮大聖人七百遠忌慶讃委員長辞任要求、(ロ)学会を宗教法人日蓮正宗の被包括法人とすること、(ハ)宗風の刷新の三点を掲げたこと等の情報が入っていた。
 そして、右宗会選挙については、昭和五四年中に行われた二回の宗会議員補欠選挙においていずれも活動家僧侶が無競争又は大差で当選したこと、同年一二月一四日に行われた監正会員選挙において活動家僧侶派が当選者五名中四名を占めたこと等に徴しても、活動家僧侶派が圧倒的に多数を占めることは十分あり得ることと予想されていた。
 学会首脳は、右宗会選挙において活動家僧侶派が三分の二以上の多数を占めるに至った場合、(一)宗門の規則である宗規を改正して、法主と管長を分離し、日顕から宗内行政の実権を奪って、これを活動家僧侶派の手に収めようとする動きが生じ、(二)宗会決議等の形で、池田名誉総講頭・日檀大聖人七百遠忌慶讃委員長辞任要求その他学会に対する厳しい宗内世論を盛り上げ、日顕が右宗内世論に従わないときは、日顕の弾劾運動にまで進むのではないか、等の懸念を抱いた(但し、宗門では昭和五五年三月二七日臨時宗会を開き、宗規を改正して、宗規改正については宗会のほか責任役員会(法主、重役及び総監により構成)の議を経なければならないものと定めたので、右(一)の懸念は相当緩和されることとなった。)。
4 他方、昭和五四年一二月に、「北條報告書」が週刊サンケイ及び週刊ポストに取り上げられた(前記三28参照)のに続き、昭和五五年に入ってからも、週刊サンケイが流出した学会の機密資料を元に連載を組み、週刊ポスト、月刊現代も同様の記事を掲載するなどし、こうしたマスコミの動きは、学会の社会的信用を失墜させるとともに、一般の学会員に深刻な影響を及ぼした。
第二節 罪となるべき事実等
第一 起訴状公訴事実第一について
一 犯行に至る経緯
1 被告人は、昭和五五年四月一〇日午前九時ころ、学会本部の北條浩会長に電話をかけ、「シーホースには三〇億円位の負債があって、今月一杯で倒産すると、二〇社位が関連倒産してしまいます。」「ここ三、四か月に発生したことは民事、刑事の責任を免れないようなことになったが、学会にはできるだけ迷惑をかけないようにします。」「大手の債権者には話をつけたのですが、一番うるさい連中の処理をするため少し応援してくれませんか。」「暴力団も騒ぎ始めているのです。暴力団関係を切って事件を拡大させないため少々まとまった金があるといいのですが、お願いできませんか。」と述べ、シーホースの会社整理に関して必要な金員の供与を要請した。
これに対し北條は、同年一月にこれを最後にするという約束で一億二、〇〇〇万円の資金援助をした(前記第一節四2参照)ことを理由に右要請を拒絶した。
2 同年四月一三日午後三時ころ、被告人は、再び学会本部の北條に電話をかけ、「会社が大変なのです。このまま行くと、いっ倒産するか分かりません。」「今僕がいちばん頭を痛めているのは、僕に非常に好意を持ってくれている銀行の支店長が首になることです。富士の小舟町、方南町、それに三和は、支店長の権限を越えて個人的好意から融資してくれたので、このままにしておいたら問題になり、支店長が首になってしまいます。」「何とかして欲しいのです。是非会って下さい。」と懇請した。北條は、被告人の懇請を理不尽なものと思ったが、この際、これ以上の援助はできないこと及び顧問弁護士を解任したことをはっきり告げた方がよいと考え、同日午後九時、東京都千代田区紀尾井町四番一号ホテルニューオータニ内バー「シエラザード」で会うことを約した。
3 同日午後九時ころ、被告人は、北條及び同人に同行してきた山崎尚見副会長と「シエラザード」で会い、同人らに対し重ねてシーホースの窮状等を訴え、資金援助を懇請した。これに対し、北條が、これ以上の援助はできないと断り、「先生はこれまで随分と君を護って助けてくれたじゃないか。その恩を忘れてはいけないよ。先生や学会を撃つようなことはするなよ。」などとたしなめた上、「顧問弁護士は三月一杯で辞めてもらったからね。」と告げたところ、被告人は、「致し方ないでしょう。その代わり今差し当たって会社を収めるには、三億円が必要ですから、それを退職金として出して下さい。」と要求し、北條が「とんでもない。顧問弁護士に退職金がないことは君も知っているだろう。それにしても桁が違うよ。物事には限度というものがある。」などと言ってこれを拒絶すると、「そうですか。じゃ僕一人で勝手にやれということですか。どうなっても知りませんよ。」と言い放った。
4 北條は、被告人の要求を拒絶したものの、「どうなっても知りませんよ。」などと言う被告人の態度から、被告人が前記原島資料等を反学会派の僧侶やマスコミに流すなどして学会攻撃をするおそれがあると感じたため、翌一四日夕方、学会文化会館に、森田理事長、秋谷栄之助副会長、八尋頼雄、福島啓充、桐ヶ谷章各弁護士を集め、対応策を協議したところ、全員が被告人の要求に応じる必要はないという意見で一致し、なお、被告人には責任役員会議を開いて退職金を支払えない旨決定した上、右役員会議の決定として拒否の通告をするのがよいとの結論に達した。
 北條は、同月一六日午前九時三〇分ころ、学会本部で責任役員会議を開き、これまでの経緯を説明するとともに、被告人の要求を拒絶した場合被告人がいかなる学会攻撃をするか計り難い旨をも述べ、これが対応について検討を求めた。結局、この会議においても、退職金は支払わないとの点で意見が一致したが、同時に、そのため被告人が暴発して学会攻撃に出ることのないよう同人の説得に努めることとし、事態の推移によっては多少の金員を支払うこともやむを得ない、右の点を含め、被告人への対応は北條及び森田に一任する旨が了承された。
 北條は、右会議終了後、被告人に電話をかけ、「役員会の決定により退職金は支払わないことになった」旨を通告した。被告人は、これに反撥し、「それじゃ僕の勝手にしろということですか。」などと言い始めたが、北條は、「とにかく、役員会で正式に決まったのだから。私は今から愛媛に発つので時間がない。明日帰って来る。」と述べて電話を切り、直ちに愛媛に向け出発した。
5 被告人は、同日午前一一時五〇分ころ、山崎に電話を入れ、折り返し同人からかかって来た電話で、同人に対し、
(一) いきなり、「まあ要するに、この場合一人で処理せいということですね。」「お前一人でやれ、とこういうことですね。」と切り出し、
(二) 山崎が「いや、学会としてキチッとやらなくてはならないところと、それから応援できる部分はまたできるだけの応援は考えたいという気持もあると。具体的な問題としてどうするかは相談しながら考えたい。」などと述べて、宥めようとしたのに対し、「時間がないでしょ。」「そんな中で僕も自分の気持と反する方向にぎゅっぎゅっと詰められていってしまうことは無念だし、嫌だ。できればそういうことにならないで、他の人にとっても結果的にいいと、また自分も責任全うできたと言えるような形で終わりたいのです。」「僕もそういうふうに思って最大限努力してきたし、これからもそのつもりなので、その点だけはひとつ間違えないでいただきたい。」「ただ、生の人間でね。僕も限界があるから、限界を越えると、自分でも自分の身がどうしようもなくなるでしょう。」と述べ、
(三) 続いて「基本的には一一月から一貫して本当にじっとしている。」「ざっくばらんに言えば、全く僕も戦争をやめた。」「それは先生の方も気をつかって下さっていることを百も承知ですし、僕もじっとして何もしてない。」「おかしいけど、むしろお役に立てたらという感じでいる。」「ただ、これからいろんなことでゴチヤゴチヤゴチヤゴチヤしている中で、僕にしても、どうしようもなくなった場合、誰かの力を借りて切り抜けなければならない。誰かの力を借りて生きていかなければならない。」「自分の持ってるものを、何でもいいから、その処理のために使えるものは使わなければならないことになる。」「そのようなところに追いっめられた場合、僕のことみんな知っているから、やっぱり自分の思うとおりのこと、いかないから。」などと自分の現在の立場や心境を説明しつつ、学会の対応いかんによっては、再び自分を支持する反学会勢力と結んで学会攻撃を行うこともあることをほのめかし、
(四) 山崎が「いま羽田にいる北條さんから電話があって、いずれにしても帰ってから話し合おう、その旨を伝えてくれと言っていた。」と述べたのに対し、「とにかく、ここ三、四日で僕も行きつくところへ行きついてしまう。」「食うために何かしなくてはというところまでいってしまう。」「応援して助けてもらってもあとの祭りということになってしまう。」「お願いするのは僕の一番タイミングのいい、効果的な時にお願いして、」などと自己の窮状を訴え、緊急の援助を要請し、
(五) 他方、「その代わりに、それなりのことを僕も考えなければいけないなということをずっと考えている。」「僕の考えとしては、この三年間やったことはそれなりに意味があり、学会と宗門にとって根本的な正さなければならない問題は正され、大体五〇パーセント、六〇パーセントは目的を達成できた。」「あとのところは、残りの四〇パーセントの部分をどう解決するか。騒ぎをね。それはばっといっぺんに、シャンシャンてなことにいくものじゃない。じわあっとその根を殺していく方法しかないわけです。一つは騒ぎのタネをもう作らないこと、それでみんなの気持を落ち着かせていくこと、そうでしょう。」「そういうことに向けてのことは、僕にはできないことではないしね。」などと述べて、暗に、学会が資金援助をしてくれれば、その代償として、自分も宗門問題等について学会のために働く用意がある旨を示した上、
(六) 「当面会社の整理には、いろいろなことに少し追い銭を出してやらなければならない。」「普通、会社の経営者はそのようなことはせず、何があっても自分の金は自分の金で隠して逃げてしまうものです。しかし、僕はそういうやり方はしたくないし、僕がそれをやれば学会の名前が出たり、いろいろしますよ。」「そういう中で、自分も泥をかぶり、学会も泥をかぶっていくことは、なるたけ避けたい。」と述べ、さらに「学会は違うからね、佼成会とは」と言って、かつて立正佼正会において関連会社に貸付金があったことから、宗教団体が他の名義で事業を経営しているとして、世間の批判を浴びた事実を山崎に想起させた上、「違う、違う、違う。また本当に筋からいうと、これで学会が泥をかぶるということもおかしいんだよね。」と言い返す山崎に対し、「だからそれを防ぐためにね、必要なの、お金が必要なのですよ。」「だから何らかの形である程度考えて下さいとお願いしているのです。」などと述べ、
(七) 次いで、同月一三日「シエラザード」において北條に対し顧問弁護士の退職金として三億円を要求した事情につき、「退職金という言い方がね、決して僕は自分にこれだけの功績があるからよこせと言ってるのではない。それは口実であって、応援してもらうのは、慰めだとか、何だとか言うことではなく、現実にお金がなければ、騒ぎが学会まで及び、これを妨ぐ手だてがない。その分を何とかして欲しいと。」「共通の利害として、何とかそれができませんかとお願いしたのです。」などと釈明し、右のような趣旨で、名目は何であれ、早急に資金援助をして欲しい旨を要請した。
6 翌一七日午後、学会本部役員室において、山崎が録音した右電話のテープを聞いた北條、秋谷、山崎、八尋らは、事態を深刻なものと受け止め、対策を協議した結果、被告人の暴発を防ぐため、とりあえず北條と学会長老の小泉隆が被告人と会って説得した上、その後さらに被告人の言い分や苦情を聞くとともに学会の意向を被告人に伝える、いわばパイプ役として、被告人と宗門問題等を通じて交際が深く、個人的にも親しい関係にある溝口隆三男子部長を充てることを決めた。
 北條は、同日午後八時ころ、小泉とともに本部応接室で被告人と会い、重ねて、学会としては役員会議の決定もあり、いかなる名目でも金員の支払いはできない旨を伝えた上、「会長である私の立場としてはこれ以上話はできない。君の方でも言いたいことがあるようだから、私ではなくて学会の者で君が個人的にでも相談できる人はいないかね。」「溝口君はどうかね。」と溝口をパイプ役とすることを提案したところ、被告人はこれを了承した。その後、小泉が被告人に対し「変毒為薬」を説いて信心指導を行ったが、被告人はこれを聞き流した。
 北條は、右会談後、本部役員室において、あらかじめ呼び出しておいた溝口に今までの経緯を説明した上、学会と被告人との間に立って被告人の話を聞きながら同人を宥め、暴発を食い止めるようにしてもらいたいと依頼し、溝口はこれを了承した。
 その後、溝口は、幹部室で八尋と対応策を打合せたが、その際、被告人の要求を一切拒否し、全く金を出さないというのでは収まらないだろうとの判断から、状況によっては五、六千万円、最大限一億円程度の金を出すこともやむを得ないのではないかとの意見を述べ、暗黙のうちに、八尋の同意及び同人から報告を受けた北條の了解を得た上、そのような金を出さざるを得なくなった場合の条件を中心に検討を行った。
三 罪となるべき事実
 被告人は、以上のような経緯で、北條等に対し、シーホースに対する資金援助を繰返し要請したが、同人らの容れるところとならなかったため、学会から金員を喝取しようと企て、
1 昭和五五年四月一七日午後一一時ころ、同都品川区上大崎三丁目一四番四八号の前記溝口方に電話をかけ、同人に対し、「今度の件は学会の事件処理なのだ。シーホースが倒産した。その債権者を俺の所で処理しなければ、債権者は学会や公明党の方に押しかけて行くことになる。そうすれば、社会的な騒ぎになる。社会的な騒ぎになればそれは事件だ。その事件を処理するのに使う金をもらうのだ。」「そもそもシーホースは学会の尻ぬぐいでやって来たのだ。」「学会と自分は運命共同体なのだ。自分がだめになれば学会もだめになるのだ。」「資料は新しいの古いの含めてダンボールで一三箱ある。」「五億円欲しい。三億円はシーホースの処理に使う。あとの二億円は自分の人生用だ。」などと述べ、これに対し溝口が、「学会があなたの言うことを聞くとしても、条件をきちっと守ってもらわなければできないことです。まず学会に攻撃を仕掛けてくる戦闘意思を放棄すること、その具体的な証しとして、被告人が所持している原島資料を含む学会の機密資料を全部返還すること、宗門問題についてこれ以上こじらせないこと、シーホースと学会とは一切関係がないことを確認すること、これらのことをきちっと立会人を置いて文書を交してはっきりしなければいけません。」と伝え、金額については、せいぜい五、六千万円、どんなに学会首脳に頼んでも一億円が上限である旨を述べた上、被告人の意向は北條に伝えると答えたところ、
2 翌一八日午前八時ころ、再び前記溝口方に電話をかけ、同人に対し、「昨日のような話ではだめだ。全部放っぼり出そうか。放っぼり出せば債権者が押しかけて来ても、俺の方は学会の方に行ってくれといえばそれで済むのだ。困るのは学会の方なのだ。」「今まで学会の事件処理にかかわってきたけれども、その報酬が非常に安かった。その不足分をまとめて、報酬請求訴訟を学会に対して起こそうとしている。その訴訟の中で学会の過去の事件を一つ一つ明らかにすれば、学会にとって困った内容がどんどん出て来るぞ。」「何とか二億円にならないか。」などと申し向け、
3 その後同月二一日までの間、多数回にわたり、学会から被告人に供与すべき金員の額及び供与の条件(特に供与にあたり被告人が学会に差入れるべき文書の内容)等について、種々溝口と折衝を重ねたが、学会側が容易に被告人の要求どおり三億円を供与しそうにない状況であったので、同月二一日午後一一時ころ、学会の顧問弁護士である前記福島啓充の同都国分寺市本多一丁目一番六号の自宅に電話をかけ、同人に対し、いきなり「あの文面は何だ。どういうつもりだ。」と、溝口が被告人に提示した被告人から学会に差入れるべき文書案の内容を非難した上、「俺はもう話し合いはやめた。」「報酬請求訴訟を起こしてやる。いろいろな事件の一覧表をつけて、訴訟の場で一切を明らかにしてやる。新宿の替玉事件、千里ニュータウン、公明協会のこと、月刊ペンの内情、宗門の問題、北條記録、池田さんの女性問題、新宗達への謀略工作などを訴状の一覧表につけて明らかにする。」「会社が倒産をして三億以上の整理資金が必要なんだ。三億以下では話にならない。」「自分は闘いを始めた。ミサイルを二、三発ぶち込む。二、三か月学会と全面戦争する。そうなれば必ず学会の方が頭を下げて来る。この深刻な状況が分かるのは、北條会長一人だ。手負いの虎のしっばを踏めばどうなるか、分かっているだろう。」「恐喝だって何だっていいんだ。刑務所に入ったっていい。」「俺が本気で学会と喧嘩をすれば、二、三か月で学会はつぶれるぞ。」などと申し向け、
4 翌二二日午前一時ころ、溝口がその自宅から電話をかけ、被告人の強硬な態度について再考を求めてきた際、同人に対し、「学会に対して事件処理の報酬請求訴訟を起こす。その訴訟の中で、学会の過去の事件を一つ一つ明らかにする。そうすれば学会が困るんだ。訴状も内容証明も書きあげた。」「明日は、一時、二時、三時と会う人がいる。その中には週刊誌の関係の人間もいる。」「右に行くか左に行くか明日はっきり決める。話すなら明日の明るいうちがタイムリミットだ。もし話がつかないならば学会のことを何冊にも本にして出す。もし条件が満たされれば戦いの矛は納めてもいい。」などと申し向け、
 右溝口及び福島を介して、北條、森田、秋谷等の学会首脳を脅迫し、同人らをして、もし被告人の要求に応じなければ、被告人が長年学会の顧問弁護士及び幹部として学会の機密に属する事件の処理等に関与した上、日達に親近し、宗門と学会の調停にあたってきた立場を利用し、原島資料その他手持ちの資料を駆使して、宗門問題及びいわゆる宮本邸盗聴事件、新宿替玉投票事件、月刊ペン事件等に関し、虚実とりまぜて学会に不利益な事実を公表するおそれがあり、この場合、前記のような被告人の立場等に徴し、被告人の言葉が広く世間に信じられ、学会の社会的信用及び名誉を穀損するばかりでなく、活動家僧侶、「檀徒」等の反学会勢力に絶好の攻撃材料を与えてその勢いを増大させ、前記のように宗会選挙を控え、学会にとってきわめて厳しい宗門内の状勢を一層悪化させるとともに、広く一般学会員の動揺、離反を招き、学会の組織の維持、運営にも支障を生ずるおそれがあるものと畏怖させ、同日午前九時から学会本部で開かれた緊急首脳会議において、被告人の要求を容れて三億円を供与することもやむなき旨を決定させ、よって、福島を介して、学会から、同月二八日正午ころ、同都千代田区飯田橋一丁目一番一号ホテルグランドパレス二〇一二号室において現金二、〇〇〇万円及び額面二、〇〇〇万円の小切手四通、同月三〇日午後四時ころ同都新宿区四谷二丁目八番地新一ビル八〇一号室被告人方事務所において現金六、五〇〇万円、同年五月一日正午ころ同所において現金二、五〇〇万円、同月一七日正午ころ同所において現金五、〇〇〇万円及び額面六、〇〇〇万円の小切手一通の各交付を受けて、これを喝取した。
第二 起訴状公訴事実第二について
一 犯行に至る経緯
1 被告人は、同年五月一八日、ホテルグランドパレスにおいて、毎日新聞社記者内藤国夫から、同人が執筆中の雑誌月刊現代(以下「月刊現代」という。)同年七月号(同年六月五日発売)掲載予定の記事の第一稿を示された。その内容は、同年六月四日に予定された宗門の宗会選挙で、学会批判派の僧侶が圧勝する可能性が強いとの見通しを柱に、池田側近の中に造反の動きがあるとの情報、いわゆる宮本邸盗聴事件∴新宿替玉投票事件、月刊ペン裁判等の隠された事情等を取り合わせたものであり、そのうち、いわゆる宮本邸盗聴事件等は被告人が漏らした情報に基づくものであった。
 被告人は、同日夕方、内藤と会食中、内藤に対し、池田が側近らの前で幼児の顔にマジックインクを塗ったとされるいわゆるマジック事件の幼児が実は池田の隠し子である旨を伝えた。
2 被告人は、同月二〇日の夕方、ホテルグランドパレスにおいて、内藤から、前記月刊現代の記事の第二稿を示された。その内容は、いわゆるマジック事件を中心に池田の女性スキャンダルを大きく取り扱い、第一稿に比しはなはだセンセーショナルなものであった。被告人は、内藤に対し、「前の原稿の方が穏やかでよかった。女の話は、内藤さんは書くべきではない。」などと述べたが、内藤は、「女の話は元々あんたから出た請じやないか。」「女の話を誰が書くべきだなどとあなたが決めるのは生意気だ。」などと言って、被告人の意見を容れず、翌二一日若干の手直しをした右原稿を月刊現代編集部次長杉本暁也に提出し、翌二二日、被告人に対し、「明日ゲラ刷りができるので、ゲラを受け取って間違いがないかどうか、目を通しておいて欲しい。」旨依頼した。
3 被告人は、同月二三日午後八時ころ、杉本から前記月刊現代七月号掲載予定の内藤記事のゲラ刷り(以下「内藤ゲラ」という。)を受け取り、校閲したが、その内容につき内藤に苦情を述べ又は訂正の申入れ等をすることはしなかった。
4 被告人は、同月二四日午前一時ころ、電話で溝口を新一ビルの被告人方に呼び寄せ、内藤ゲラのコピーを示した。
 溝口は、右ゲラのコピーを持ち帰り、同日午後学会本部において八尋に渡し、八尋は、これを北條等学会首脳に提出した。
5 被告人は、その後、内藤に対し、「週刊新潮と週刊文春に、内藤さんに話したようなものを話してよいですか。」などと述べ、右各週刊誌の記者に、いわゆる宮本邸盗聴事件、マジック事件等に関し情報提供をすることの了承を求めた。
6 他方、被告人は、同月二〇日ころ、電話で溝口に対し、「男子部の安本という人間が、韓国へ行って俺の悪口を言っているらしい。けしからん。」と苦情を述べた。溝口は、直ちに安本に電話をして事情を調査の上、折り返し被告人に電話をかけ、「確かにそのような事実はあったが、それは学会や学会幹部の指示によったものではなく、全くのハプニングである。」旨釈明した。その際、被告人は、さらに「婦人部でも幹部がシーホースの従業員である会員に自分の悪口を言っている。そのため、従業員がやる気をなくしてシーホースの整理がうまくいかなくなってきている。」と苦情を述べたが、溝口が「婦人部の誰が、誰に何を言ったのか具体的に明らかにしてほしい。その上で、私がきちっと処理をしますから。」と言ったところ、被告人は、「言いたくない。」などと言葉をにごし、具体的な事実を伝えることがなかった。
 溝口は、右の折衝の模様を八尋に報告し、八尋は北條等学会首脳に報告した。
7 被告人は、同月二二日、帝国ホテル内「なか田」において、シーホース整理に関する債権者委員の一人であった元聖教新聞社編集局次長篠塚八州に対し、「内藤が暴走した。もう止まらない。池田の身の下のオンパレードだ。これはすごい。」「自分にも文春(雑誌「週刊文春」の意。以下同じ。)が書け書けと言ってきている。自分も書きたいと思っている。」などと打明けるとともに、シーホースの負債処理について、「今払わなければならない金が一〇億ある。自分には払えない。学会を揺さぶるよ。」と述べ、翌二三日朝、電話で同人に対し、「内藤が六月五日の現代(「月刊現代」の意)で身の下の総洗いをする。」「自分も文春に書く。ペンネームは華悟空ということでやりたい。」「学会の首脳と会ったら、自分が学会は冷たいと怒っていることを伝えて下さい。」などと述べた。
 篠塚は、同月二四日の夜、千駄ヶ谷の「十千万」で北條、山崎等と会食中、両名に対し、被告人が学会は冷たいと怒っている旨伝えた上、翌二五日ホテルニューオータニで右両名に会い、前記被告人の言動を伝えた。
8 被告人は、同月二八日午後二時又は二時三〇分ころ、新一ビル二階の喫茶店において、篠塚に対し、「互いに弾を撃合わないという信義の下で矛を収めて来たが、また悪口を言われ始めてきた。抗議すると、誰が言った、すぐに注意するとか言うが、それが常套手段だ。こういうことをやっていると、私を信頼してきた人達に対して信頼を失うはめになる。」「ポスト(雑誌「週刊ポスト」の意。以下同じ。)、新潮(雑誌「週刊新潮」の意。以下同じ。)もやるそうだ。」「私も文春で連載を五回書く。」「内部の人達は和戦両様の構えでいけと言っている。」などと述べた後、シーホースの債務整理のため必要な金額を一覧表風に記したメモ二枚(一枚は、銀行、イチビル、日原等の大口債権者に対する負債額が記されたもの。その合計は三四億四、〇〇〇万円、その他に一般債権六億ないし八億円の記載がある。他の一枚は、各債権者ごとに三か月、六か月、二年以内に決済を必要とする金額が記されたもの。三か月以内に決済を必要とする金額の合計は四億四、五〇〇万円、二年以内の同合計は五億四、〇〇〇万円。)のコピー(以下「負債メモ」という。)を示し、「債務が三四億四、〇〇〇万円あったけれども、それを三分の一に縮めた。自分はこれだけ努力したのだ。」などと内容について説明した上、「私には今窓口がない。篠塚さん、これを学会の執行部に届けていただけませんか。」と依頼し、篠塚が了承すると、「それを篠塚さんの手で転記して持って行って下さい。」などと申し添えた。
 篠塚は、翌二九日午前中に自ら右負債メモを転記した上、同日午後二時ころ、ホテルニューオータニ内レストラン「アゼリア」で山崎と面会し、右転記した自筆のメモと併せて被告人から受取った負債メモを渡して被告人の前記言動を伝えた。山崎は、北條等学会首脳に右の事実を報告した。
9 同月二八日ころ週刊ポストの記者が、同月三〇日ころ週刊新潮及び週刊文春の記者が、それぞれ学会を来訪するなどして、前記月刊現代七月号の記事に関するコメントを求め、週刊新潮はは、マジック事件等に関する取材を始めた。その際、週刊新潮及び週刊文春は、右月刊現代の記事のゲラを入手していると言い、週刊文春は、そのゲラのコピーを学会に送付してきた。
10 北條等学会首脳は、以上の事態に直面して、月刊現代及び週刊新潮その他の週刊誌の誌上で宮本邸盗聴事件や池田の女性スキャンダル等がセンセーショナルに書き立てられることになることを深く憂慮するとともに、内藤及び週刊新潮等の記者に情熱を提供したのは被告人であり、被告人が今後も同様のことを行いながら、シーホースの整理に必要であるとして、さらに一〇億円又はこれに近い金員を要求してくるであろうと考えて困惑したが、何ら有効な対応策を見出せないでいた。
二 罪となるべき事実
 被告人は、右のような状況を利用し、学会側の妨害によりシーホースの整理が順調に進まず、さらに五億ないし一〇億円程度の金員が必要になったと主張して、右整理資金援助名下に学会から金員を喝取しようと企て、
1 同年六月二日午前九時ころ、学会顧問弁護士である前記桐ヶ谷の事務所に電話をかけ、同人に対し、
(一) マスコミに対する対応について、「力ずくで踏んづけようとすると、まんじゆうからあんがはみ出すようなことになってくる。」「法律的な対応の仕方は慎重に考えた方がよい。」「告訴、告発で来ると、思いがけないところに情報源があり手痛い目に会う。」「すでにマスコミで明らかにされているのは三で、まだ残っているのが七だ。」「戦争になったら一〇のものが全部出る。七のものまで全部噴出させてよいなら強気でやればよい。」と述べた上、
(二) 「これからは証人が出る。」「僕なんかを含めて証人が出る。僕は偽証をする気はないが、弁護士法違反くらいでひるむ気はない。」と言い、
(三) また、「学会の古い幹部のこともよく分かっている。酒を飲んで何を言い合っているのか知っているんだ。」「早く池田が死ねばいいと言っている。」「バランスが崩れたらどっちに転ぶか分からない。」「ウミを出させた方がいいと思っている層もある。」「七、八〇人にあたってみたが、七一三位の割合でそう言っている。この際僕らにやらせようという動きもある。」などと述べた後、
(四) 「内藤と話し合うのがいいのではないか。」「訴訟だ法律だとやっても構わないがその場合気違いに刃物にならないように慎重に。」「そんなことをすれば残りの七割のタマが噴き出す。」「言論問題(昭和四五年三月のいわゆる言論出版妨害問題の意)の時みたいになる。」「黒い鶴のタブー(その当時「赤旗」に掲載された学会批判の連載記事の意)みたいに学会攻撃されてからではマイナスが大きいでしょう。」などと申し向け、
2 翌三日午後二時三〇分ころから、同都新宿区四谷二丁目八番地岡本ビル二階の喫茶店ルモンドにおいて、桐ヶ谷に対し、
(一) マスコミによる学会批判について、「マスコミを怒らせたらああいうふうになりますよ。」「内藤さんが火つけ役よ。」「ここで大いにやってもらおう。」「内藤さん、もう一発書くよ。」「新潮はあれでも生ぬるいって言って騒いでいたね。もっとどぎっく書きまくるって言っているよ。」「告訴されたらどうするんだと言ったら、証人が出るんだって言っている。一つや二つは明らかに証言ができるって。」「断定的なことを書くよ。そう言ってたよ。」「法廷に池田さんに出てもらうんだって。新潮もそう言っている。内藤もそう言っている。」などと述べ、自分が月刊現代や週刊新潮の学会批判の動きにその内部で深くかかわり、これに影響力を及ぼすべき立場にあることを言外に示しつつ、そのようなマスコミの学会批判がさらに厳しくなるであろうことを強調し、
(二) 学会の体制に反対する学会内外の動きについて、
(1)「最終的には集団告発が出るよ。」と言い出し、桐ヶ谷が「集団告発って-学会員が一斉蜂起するみたいなやつ。」と尋ねたのに対し、「うん、一万人位。」「あちこちで一斉にやったら、どこかつむじ曲りの検察庁が取り上げるよ。」などと、学会員等による学会内部の不正に対する集団告発の動きがある旨を述べた上、「学会内部はこれでおしまいになるよ。」と言い、
(2)いわゆる月刊ペン事件をめぐる関係者の動向として、「隈部さん、裁判をやり直すらしいよ。再審請求をやるって。」「事件のネジを掛け戻そうというあれですよ。」「みんなが寄ってたかってやればできるよ。」などと述べ、桐ヶ谷から「それはボス(被告人の意)がやると言っているようなものだ。」「やっちやいけないんですよ。」と反論されるや、「学会にも金載圭が必要なのかもしれないよ。」「成行きでやらなきやならなくなる可能性がある。何と言われたってしょうがない。脅したと言われようと、欺したと言われようと、銭ゲバと言われようと、何と言われようと。」と言い放ち、
(3) さらに「池田さんがいなくても、組織はやっていけるのだ、この際うみを全部出して、きれいにしてからやった方がいいんじゃないかという意見も強い。」「その意味でうみ出し作業が必要ならやってもらってもいいという人もいる。」などと述べた上、状況によっては自らその作業にあたることも辞さない意向を示しつつ、「金載圭でいいよ、俺は。」と揚言し、
(三) シーホースの整理に対する学会側の妨害とその影響について、「俺が必死で処理してるのに、罰があたって会社がつぶれてどうのとか、会社の方はやめて組織に戻れなんてことを言ったりする者がいるから、会社の整理がますますうまくいかなくなっている。」「いろいろなところから債権者のところへそういう話が入るので、債権者の間にも動揺が起こって処理がうまくいかない。」などと述べた上、「ひどい人は、学会を脅かして退職金をもらって俺達に払ってくれなんていうのが出てくる。」「暴力団でシーホースの手形を持って、学会や公明党へ行くというのが出てくる。」などと申し向け、
(四) 桐ヶ谷が学会と被告人との関係について「俺達としてみれば、もうあれ(同年四月及び五月の三億円の供与の意)で解決ついたと思ったよ。」と述べたのに対し、「解決ついたと思っても、解決つかしてくれないもの。墓を暴くようなことをやられるんですから。」と述べた上、「僕は北條さんにも言ったんですよ。僕は七分は引いておきますからね。でも我慢ができなくなったら、もうミサイルしか持っていないからね、僕は。我慢できないところまできたら撃ちますよ、と言ってある。僕はまだ撃っていませんよ、はっきり言っておくけど。昔の不発弾が今ごろバカバカやっているだけだ。僕が撃ったら、あんなものじゃないですよ。」「四七年以降の学会の構造というのは壊れますよ、僕が本気で動き出したら。」などと申し向け、
(五) さらに、「本当のこと僕は知っているんだよ、山のことでも宗門のことでも。」「今の祝下(法主の意)が知らないようなことも知っているよ。前の祝下から委任状とか手紙とかそんなものも頂いているから。」「事実を知っているのは僕なんだ。」などと述べて、自分が学会及び宗門の重大な秘密を握っていることを改めて強調し、
(六) また、「本当に僕が戦争するというんだったら、マスコミの力を借りてやるしかないんですよ。」「今だって僕に書け書けってうるさいですよ。一枚五万円で書けって言うんだもん。」「あと、本にして出してやるって。」「名誉穀損で告訴されたら、本当だという証人になってくれる人がいくらでもいる。」「袴田のものより僕のものの方が迫力がある。」などと、自ら週刊誌等に学会又は宗門の機密に属する事項を執筆発表することもある旨を示し、
(七) 「特財を集めるに至ったいきさっもよく知っているからね。事務手続上どうするかということまでかかわったからね。」と、右の問題についても学会の秘密を握っていることを告げた上、桐ヶ谷が「そんな馬鹿みたいな消耗戦をやってもしょうがないんだよなあ。」と述べたのに対し、「やってもしょうがないんだったら、やらなくても済むように処理しなさいよ、あんたたちの方で。」と語気鋭く申し向け、桐ヶ谷が沈黙していると、「ウフフフフ」と独り笑いをした後、「原島さん、ちゃんと復権させて、副会長にでもしてあげたらどうですか。」などと述べた上、「僕を懐柔する気はあるんですか。」「僕を懐柔する気はあるんですか、学会さんの方では。」「はっきりさせて下さいよ、早く。」などと厳しく申し迫り、
(八) なお、シーホースの整理に必要な金額について、「負債総額は四〇数億であるが、やりくりをすれば名目を一二億位まで削ることができる。それも当面四億か五億あれば何とか処理できる。」旨を述べ、
3 翌四日午前七時四五分ころ、同区若葉一丁目二二番一五号離宮ハイム四一〇号の桐ケ谷方に電話をかけ、同人に対し、
(一) 「どうするの。」と問いかけ、桐ヶ谷が内藤記事に対する非難等を口にしたのに対して、「学会の方で喧嘩をするというなら、そのように構えて話さなければならない。」「そうか戦争か。」「豚箱だろうが何だろうがこわくない。」「最後は血が流れる。」「俺の戦争のやり方は無駄弾を撃たない。一直線に撃つ。」などと言い放ち、
(二) 「内藤があれだけのことを書くのは、かなりの覚悟と裏付けがあるからだ。」「陰にいる人達もそれなりに腹を決めているのだろうし。」「五人出て来るか一〇人出て来るか知らないが、一直線で来る。」と述べた上、
(三) 「俺と喧嘩するのかしないのか、早く決めてもらいたい。」「俺を殺さない限り弾はなくならない。」「三か月位戦争をやるか。」「抱えている訴訟は全部崩れる。」「池田さんもいっちゃう。社会的にダメになる。」と言い、
(四) さらに、「八尋は何て言っていたか。学会首脳はどう言っていたか。どっちなのかはっきりして欲しい。」「学会の周辺で生きるのか、離れて生きるのか、はっきりしたい。」「学会が自分のことをはっきり赤の他人というならそれでいい。」「俺には二〇年間の蓄積を飯の種にして生きる権利がある。」と厳しく学会側の対応を問いつつ、
(五) 「騒ぎを起こさないためには、会って話し合ったらいい。」「内藤、マスコミ、僧侶、俺を切って戦争になって、どろどろしたものが出るというならそれでいい。」「俺は戦争をやるなら中途半端はない。やるなら徹底的にやる。」「話し合ったらどうか。それからでも戦争は遅くない。」「今さら会ったから、懐柔の案を出したからといって、底が割れる程、学会は底が浅くはないのではないか。」などと申し向け、
(六) 「今日中に右か左かはっきりしたい。」と再び学会の対応を問い、桐ヶ谷が明確な答えをしないでいると、最後に、「どうせなら後輩に手柄を立てさせようと思っているのに。二、三週間たってからどうなっているか皆で考えろよ。」と申し向け、
4 同日午前一〇時ころ、学会本部にいる山崎尚兄から前記新一ビルの被告人方に電話があった際、
(一) 山崎が、「さっき桐ヶ谷に聞いたら戦争をするのかどうかって話なんだけど、僕達戦争をする……」と言いかけるのに、「これはもう無理やり引張り込まれてしまうから。いやおうなしに。」「告訴だなんだということになり、これが事実なのか事実でないのかということを証言しろということになれば、僕も嘘は言えないから、自分の知っていることを言わなきやならなくなる。」「僕自身、縄をお互い足を引張り、くくり合ってる感じでね、来た人達もいるから、僕はいいけど、そういう人達がどんどん動き出したら、僕もいやおうなしに引張り込まれちゃうよ。」などと述べ、
(二) 山崎が再度「こちらの気持としては戦争なんかする気は毛頭ない。」と強調したのに対し、「僕の立場というのはね。非常に困っているわけ、端的にいうと。」と前置きした上、シーホースの整理について、「たいへん何というか好意的な計らいをしていただいたおかげで、今のところ確かにうまくいって助かって、僕としても楽に肩の荷を降ろせるなと思っていた。」「そのほかにもまだ名目的には債務が二〇億だ三〇億だっていうけれど、こういう処理というのはまるまる払わなければならないものじゃないから。それが五億で済むか、一〇億で済むか、いずれにせよ僕はこれから三年か五年間一生懸命働いて誠意を見せることによって、それが食い止められるか、ともかく頑張ってみようと、そのつもりでいた。」「ところがいろんな組織の人達のチヤチヤが入ったりしたので、収まりがちょっとうまくいかないという部分が出てきた。」「シーホースの手形を持って公明党へ払ってくれと行くんだと、ヤクザが言い出したりしている。」「学会がらみなんだから、公明党がらみなんだから、払えって言いに行くんだとか、銀行を揺さぶるんだとか言っている。」「山崎先生が頑張って必ず取返してくれることを期待して、我慢して待ってますからって言ってくれた人達も、山崎は学会の中でもう駄目なんだ、大罰受けてどうのこうのという話を聞いて、おいあの人ちょっとまずいぞ、いざというときに備えてきしっとやれよって感じになっている。」「僕が日原を脅して二〇億円、墓地のあれ(富士宮墓苑の工事代金等の意)の中から金を出させたみたいなことを、債権者に告げ口した本部職員がいる。」「さらには、組織の方で、シーホースに残って整理にあたっている者の家族に対し、あなたの旦那の会社えらいことになったのね、罰があたって大変なのねなどと言うので、せっかく会社に残っている五、六人の人達が動揺している。」「山崎さんの会社にいっまでもついていたらまずいよ、河上さんか岩住さんに話して早く抜け出して組織に戻るようにしてもらったら、などと言う者が現実にあった。」「そういうことで、僕だけが借金背負って、死にもの狂いで三年、五年やっていこうと思っていたことが、基盤がガタガタになってしまった。」「現実に公明党に変なのが揺さぶりに行ったりね-まだ行っていないけど。現にそういうのが東急ホテルに泊まってギャーギャー言っているわけですよ、山口組のヤーさん達が。」「富士銀行の株主総会で大暴れするとか。」などと申し向け、言葉を尽くして、学会側の妨害によりシーホースの整理がうまくいかなくなり、暴力団も騒いでいることを強調した上、
(三) 「そういうことで、僕が当初考えていたような形できちっと着地をすることができなくなってしまった。」「どうしたらいいんだろう、困ったなあって相談を溝口なんかにしていた。」「その最中にこういうもの(月刊現代、週刊新潮等による学会批判の動きの意)が横っちょからバーツと出てきたでしょう。それが一緒になると、僕としても虚心坦懐の話ができなくなっちやったわけよ。」「こういうわけで、こうなったのですけれど、何とかひとつもうちょっとこういうふうにしてくれませんかとか、この点何とかならないでしょうかとか、そういう話ができなくなっちやったわけよ。」などと述べ、
(四) ここで山崎が、「いや、だからね、率直に言うけど、シノさん(篠塚八州の意)の方から、この前会ったときもちょっと話があったので、僕その話も聞いてさ、あいっには聞かなかったよって言ったけどね。やっぱり何か応援できることなら、考えなくちやいけないなって思ったしね。」(間)「何とかしてもらいたいんだよね。」と述べたのに対し、前記(二)と同様の話を繰り返した上、「それで、どういうふうにしたらいいかということを、僕一人ではどうしようもないから、相談に乗ってもらいたいと思っていた。」「会社の現場やっていて、ある程度そういうことが判断のつく人にも力を借りて。」「八州にももし親身にやってくれるなら力借りてね。」「だから多少のことを篠塚にも話したわけ。」と応じ、山崎から再度「だから僕もあいっ(篠塚の意)とは今まであんまりつながりがなかったから、そんな話僕聞かないよとわざと言ったわけ、話としては十分聞いてね。そんなこともあるんだろうなあと、心の中では感じていたわけよ。」と言われると、「たまたま今度北條さんと会うんだって話聞いたからね。で、どうなっているのと聞くから、いや八州君誰にも言わないでくれよと、実は一月から先生に頼んである程度応援してもらったんだと。」「現実にいくら借金あるんだ。いや実はこういう訳で名目上四七億いくらになるんだ。でどうなんだと。いや僕は銀行はもう踏み倒す、これはこういうふうにするつもりだと、一二億なら一二億、二〇億なら二〇億それぞれ保証書入れて、僕が個人保証すると、ただ実際に払えるのはこれだけだと。払わなきゃいかん金はどの位だと。ま、今のところ概算で一二、三億か一四、五億だろうと。ただそれもそのまま払わなきゃいかんものじゃないでしょうと八州が言うから、そりゃそうですよと、倒産したら一割も配当があればいいんで、三パーセント、五パーセントというのが普通なんだから。」「だけどそれは普通の関係であって、信頼関係で何とか仕事をしながらやろうという場合には、それでは済まんと、でもその金額が五億に止まるか、一〇億になるか、それは僕には分からんけれども、僕がそれを背負い込んでやっているから、一般の整理がうまくいったんだと、なおかつ、学会の方である程度支えてくれたから、筋ものとか何とかいうのがちょっと待ってんだ、ということは彼に言ったんだ。」などと、るる説明し、
(五) ここで山崎が、被告人の真意はシーホースの整理のため最少限度必要とされる前記五億ないし一〇億円についての援助名下に、学会に対し金員を要求するにあることを察知し、「なるほどね、分かりました。まあじゃあ。」と電話を切りかけると、追いかけるように、「そのあとの問題ね、あの僕も。」と言い出し、山崎が「全額じゃなくてもいいわけだな。」と言うのに構わず、「やるだけやりますよ。ただその会社のその問題と今の流れの問題はね、別に考えてもらわないと困る。」と申し向け、
5 同日午後二時四〇分ころ、右同所から、電話で、学会本部の山崎に対し、
(一) 「それでどうします。」と山崎の対応を問い、山崎が「あの一遍相談したいと思ったんだけどね。どうしますかね。和戦と戦いということになった場合どうしたらいいかということよね。」「要するに和戦両様の構えと言うけど、その内容どうしたらいいかということよね。」などと被告人の要求の内容についてさらに打診してきたのに対し、当初は、「ええ、新潮は巻頭六ページらしいですね。」とか「あの、話は違うけど、韓国弾圧くいますよ。」などと応じて、話を学会をめぐるマスコミの動向や韓国の情勢の方にそらしていたが、山崎から重ねて、「ま、どういう点を煮つめるかですね。大体の考え方を教えておいてもらえればですね。」「北條さんもああいう人だからね、ある程度前もって話して、あれしておかないと、なかなか結論出ない人でしょ。」などと問われるに及び、「だから二つに分けてね。そのマスコミのことどうするかということと、それからマスコミのことに絡んで、いろいろな動きのことをどう処理するおつもりなんですか。」「いくら頭の上だけ押さえたってね。下でまきが燃えていたら、お湯沸いてくるんですよ。」などと答え、さらに「マスコミではもっともっとすごいものを用意しているよ。」「組織はさめているからね。執行部よりちょっと下の所は、うみを出してしまった方がいいんだというふうにみんな思っているからね。」「お山も少し、殿ご乱心、裸の王様が山に波及したって、今度書くんだって言っていたよ、内藤が。」などと言い募り、
(二) 山崎が、「本当にしょうがねえ。で要するに、そのやり方だね。」「そうなると、会社の方はどうするわけ、それで。」と問うたのに対し、「会社の方はね、ちょっと僕としても非常にきつい立場になってしまったから、その分少しまた応援してもらえるのかどうか。」「もらえるとすれば、どういう形でどの辺でしていただけるのか。どういう時期までにそれができるのか。」「できないならできないで、僕はまた稼ぐ方法を考えなければいけないから。」と述べ、山崎から「大体どの位ですか。」と金額を尋ねられると、「だから僕の見通しとしてはね、やっぱり五億前後位までで、一切押さえちやいたいと思っているんですよ。」と答え、
(三) 最後に、「とにかくね、ろくなことはないですよ。喧嘩したら。」「うちは弱い。負けるに決まってるんだ。」「やっぱりね。旗印かかえているんだから、一発でもそこへ弾飛んできたら負けなんだもん。」などと申し向け、
 もって、桐ヶ谷及び山崎を介し、北條等学会首脳に対し、暗にシーホース整理のための援助金名下に五億円程度の金員の交付を要求し、もし学会が右要求に応じなければ、今後もさらに内藤若しくは週刊誌の記者等に対し、宗門問題、いわゆる月刊ペン事件、特財返還請求事件、宮本邸盗聴事件、新宿替玉投票事件、池田の女性スキャンダル等に関する学会に不利益な情報を提供し、又は自ら右事項に関する記事を週刊誌に寄稿してマスコミによる学会批判をいっそう活発にするとともに、活動家僧侶、「檀徒」又は学会内の反体制勢力と協力してその学会攻撃をいっそう盛り上げ、なお、シーホースの整理にあたっては、同社振出しの手形を所持している暴力団員が右手形の支払いを求めて学会又は公明党に押しかけ、騒ぎを起こすように仕向けかねない旨を示して脅迫し、同人らを畏怖させたが、翌五日、同人らが警視庁に告訴し、その要求に応じなかったため、その目的を遂げなかったものである。
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