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■自民党が言う「自助・共助」は決して打ち出の小槌ではない

 現在国会では社会保障と税の一体改革が議論されているが、自民党は社会保障について「自らの生活を自ら又は家族相互の助け合いによって支える自助・自立を基本とし、これを相互扶助と連帯の精神に基づき助け合う共助によって補完し、その上で自助や共助では対応できない困窮等の状況にある者に対しては公助によって生活を保障する」という理念を社会保障制度改革基本法案で打ち出している。それ以前にも日本型福祉社会として同様の理念を打ち出している。自助・共助で対応できない事態に立ち至ったときに初めて政府や自治体が乗り出すという理念である。この理念は一見美しい。「絆」の再生、家族の支えあいなどと述べればより美しいように見える。またこれから迎える高齢化社会、更には財政難を考えれば政府にばかり頼ってはいられないという意見もあるし、そのようなことは自民党からも聞こえてくる。しかし私はそれに胡散臭さを覚える。以下に説明しよう。

1.自助・共助は打ち出の小槌ではない
 一般に社会保障では次の式が成り立つ。

 受益者が受けるサービス=支える側の負担

 この式を忘れている人が多いんじゃないかと思うときがある。受けるサービスと負担は常に等しい。これは当然の道理だ。自助だろうと共助だろうとあるいは政府が提供するサービスであろうと支える側が負担した分以上の受益はありえない。もっとも資金を運用して負担以上の利益を得ることはあるのだがこれは例外。
 だから、自助だろうと共助だろうと同じだけのサービスを得るのなら同じだけの負担をすることになる。政府を通しても直接家族が助けるにしても、だ。高齢化社会を迎えるのだから政府による給付にも限界がある、だからこそ自助・共助をというのはこの点で問題がある。自助として老人自身が収入を得るようにするのは格別、家族が直接支援するにしても政府を通して支援するにしても結局は同じだけのリソースを割くのだ。例えば寝たきりの老人を介護施設で支えたら費用がかかるが家族が支えたら費用はかからない、だから家族による支えあいの方が良いとおっしゃる方もいるだろうが、それは単に費用を見えにくくしただけである。寝たきりの老人一人を家族で面倒見るとしたら家族のほうも少なくとも一人は付きっ切りでなければならない。一人が24時間365日付きっ切りでいればそれは大変な労力だ。もちろん付きっ切りの一人は収入を得ることを諦めなければならない。労力というリソースをここでは割いている。それでも、家族介護なら念入りに衛生面での配慮もしなくて良いのだから施設介護よりはいいんじゃないのかという意見もあろう。しかし、衛生面での配慮だって伊達にしているわけではない。要介護者が病気にならないように、あるいは介護する側が病気にならないように、そういう意味があるのだ。家族だから衛生面での配慮もそれほど要らないだろうというのは家族ならば多少病気になっても構わないだろう、家族介護なら要介護者が死んでしまってもしょうがないと言うのと同義である。なるほど家族介護なら政府が割くリソースは少なくなる。しかしその分を家族がリソースを割いているわけだ。どこからともなく介護サービスが舞い降りてくるなどという甘い話はないのである。老人を支えるにはどういう仕組みであろうと負担は必要なのだ。老人の方にとってはお荷物扱いされたと取られる方もいらっしゃるかもしれませんがそれは筆者が責めを負うべき筆力不足によるものであり、お荷物扱いは決して筆者の本意ではないことを申し添えます。

 しかし、家族による支えあいの仕組みを中心とすると次のような事例も出てくる。
・収入は食うや食わずやの生活を支えるのが精一杯なのだがかといって家族に支えてもらうと苦労する姿を目前に見ることになるので支えてもらうのを諦め、食うや食わずやの生活を続ける。
・家族から虐待を受け続けているのに自分の介護を他に引き受けてくれるところがないから諦めて虐待を受け入れ続ける老人
 このような事例だと確かに虐待対応のためのコストや低収入を補うためのコストと言ったコストが無くなるので当然支える側の負担は軽くなる。しかしこれとて本来支えてもらうべき側が最低限の生活条件すら犠牲にして負担していると言うだけの話で、「受益者が受けるサービス=支える側の負担」という式を覆すものではない。支えてもらう側に犠牲を強いてまで自分の負担を軽くしたいというのなら採用の余地はあるかもしれないのだが私は真っ平ごめんである。
 これで「自助・共助」は決して打ち出の小槌ではないことがおわかりいただけただろう。

2.「自助・共助」はかなり不公平だ
 先に引用した自民党の社会保障制度改革基本法案では社会保障の目的である生活の安定は家族相互の助け合い等によって支える自助が基本だとしている。しかしこの家族相互での助け合い、かなり不公平だ。家族相互での助け合いが基本というのだからニーズがある者の家族がまず負担すべきということになる。これって要はニーズがある者の家族にのみ負担させてその他の人間は負担せずに知らん顔ということである。たまたま家族にニーズある者がいたから重い負担をし、たまたま家族にニーズある者がいなかったから負担が軽く済むのだ。これは不公平ではないか。低所得の親の元に生まれ、苦労して高所得を得るまでに努力した子が重き負担をし、その一方で高所得の親の元に生まれさして労せず高所得を得るに至った子の負担は軽いということになるのだから。
 政府を通じた支えあいの仕組みなら税や社会保険料という能力に応じた負担の仕組みが確立しているのでこのようなことはない。このことを考えると自助を強調するのは税や社会保険料という形でみんなで負担するのは嫌だ、ニーズある人の周りだけで負担すればいい、という非常に自己中心的な考えにしかみえないのだ。税や社会保険料という形での負担はニーズある人の周囲もその能力に応じて負担することになる。自助や共助という形での負担はニーズある人の周囲のみが負担し、それ以外の者は一切負担しないからだ。このことを人類愛や道義心などという概念で正当化されても私には承服しかねるというのが正直な感情である。
 こうしてみると自助を強調するのはかなり胡散臭く見えてくるわけだ。

 以上、二つの論点に沿って自助・共助の胡散臭さを論じてきた。私の意見はどの道負担は変わらないのだから政府や自治体によって手厚いサービスの提供がなされるべき、である。
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テーマ:社会保障 - ジャンル:政治・経済

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