■2013年03月
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■保育所が足りないと訴える保護者にどこまで努力を求めていいのか

「認可保育所増やせ」 都内で相次ぐ母親たちの異議申立て
生活保護とギャンブルと密告

 この二つの記事を見て思った。保育所に入れたいという保護者にどこまで努力を求めていいのだろうかと。ひいては行政サービスすべてにおいて要望する人にどこまで自助努力を求めていいのだろうか。これがなかなか難しい。自分がサービスを受ける側だったら寛大なサービスを求めるし自分が負担する側なら厳格にサービス提供を絞ることを求めるのだからなおさら難しい。例えば保育所についてうんとうんと厳しい見方をすると次のようなことも言える(ただし私がこれに賛成というわけではないので念のため。うんとうんと厳しく当たるとしたらどのようなことを言えるかシミュレーションをしているまでなので念のため)

―共働きをしなくても済むように生活水準を落とす
―親族に子を預ける、または親族に昼間だけ子を見てもらう
―保育所に空きのある地方に転居する
―だいたい、統合失調症を抱えながら保育所に入れることなくどうにか子育てをした人を私は知っている(実話)。そういう人と比べて不公平ではないか
 一つ目について詳しく述べると本当に共働きをしないと生活が立ち行かないのだろうか。とりあえず食べるものがあれば飢え死にはしないし娯楽なんて不要。教育費だって全部公立で済ませればそれほどの負担ではない。公立高校に入れなくても高校は義務教育ではないのだから働けばよい、働きながら通信制や定時制に通えばよいではないか。社会に出てしばらく経ってから学校に通いなおす道もある。本当に共働きしないと教育費や生活費が賄えないの?単に贅沢な生活を維持したいために子育てを社会に押し付けているだけではないか。
 三つ目は地方なら保育所に空きがある。そういう地方に転居するのも一つの道ではないか。現在農業従事者は減少の一途を辿っている。また農業は常に人手不足。地方に行って仕事がないなんてのは甘えで、農業にいくらでも職がある。農業を目指せばよいのではないか。
 そもそも保育所だって貴重な公費からその費用を賄っている。2011年度決算で児童福祉費は7兆円を突破した(総務省「平成24年地方財政白書」)。これは子ども手当や児童養護施設の費用も入っているから単純にはいえないもののそれでも膨大な額である。それだけの費用を費やしても現在保育所に入っているのは210万人に過ぎない(厚生労働省「平成23年福祉行政報告例」)。調査年度が違うから単純に比較することはできないが2010年国勢調査では6歳未満の子が635万人もいる中の3分の1程度である。これから保育所を入りやすくしていったらこの635万人全員が保育所を目指すことになり、それに応えるとしたら今の何倍もの公費を投入することになり到底現実的とはいえない…
 と、こういう主張をしてくる人はいてもおかしくない。また、現に自民党杉並区議田中ゆうたろう氏は「「子育ては本来は家庭で行うもの」という基本中の基本を忘れるべきではないと痛感する。一抹の遠慮も忸怩の念もなく、声高に居丈高に「子供を持つなということか」「現状のおかしさに気付いて」などと世を恨むかのような態度は、それこそどこかおかしい、どこか的を外している。」と主張している。繰り返しておくが私がこれに賛成というわけではない。むしろこのように徹底的に自助努力を求めるのには反対である。おそらく子育て世帯の皆さんもこんなことを言われればあまりにもひどいと反発するだろう。そしてその反発は正当である。

 次いで老人福祉についてこういうのはどうか。これまたうんとうんと厳しいことを言うとするとどうなるかシミュレーションしたまでのことである。私はこれにも反対であるがあくまでもシミュレーションとして書くだけである。

―親族兄弟にとことんまで面倒を見てもらう努力はしただろうか。本来親族兄弟が果たすべき責任を国に押し付けていないか。
―老人ホーム入所が必要というが、本当に必要だろうか。親族兄弟が生活水準を落としたくないから入所させたいだけではないか。食うや食わずやという状態になっていないのだから入所は甘えではないか。
―生活費だって本当に足りないのか。旅行だショッピングだとずいぶん贅沢な暮らしをしているのではないか。旅行の代わりに囲碁・将棋・トランプでもしたらいい。働いていないのだからお金がかかるレクリエーションは贅沢ではないか。
―医療費だって先発品を使うのは贅沢。より安いジェネリックを使うべきではないか。先発品もジェネリックも効き目はほとんど同じ。若干の違いはあるにしても工夫すれば何とかなる。何でもかんでも保険で面倒見ていたらキリがない。現にアメリカでは保険ではジェネリックしかカバーしないものもある。
―年金を食糧現物支給だけにしてみたらいい。そうしたらほとんどの人が働くのではないか。それでも残った人たちだけに給付を重点化したらいい。
―確かに保険料を払ってはきただろう。だが保険料を払ったからって無限に贅沢をしていいわけではない。贅沢をしなければその分若い人が払う保険料も安くて済む。これから老人はどんどん増えるのに生産年齢人口は減る。今のままの福祉を維持するのは到底現実的ではない。

…はい、読んでいてだんだん怒りがわいてきた読者の方も多いだろう。私も自分で書いていながらなんだが何言ってるんだと思ったくらいだ。当然こんなのは人間の尊厳を無視した言い分で、老人やその周りの家族のごくありふれた暮らしを奪い去る言い分でもある。老人やその周囲の人間の自己決定権やその他の人権を無視したものである。ここまでの自助努力を要求するのは明らかにおかしい。介護保険施行前はこういう風潮があったのだが今ではほぼいっそうされたと思われる。

 さて、最後は生活保護である。これまたうんとうんと厳しいことを言ってみたらどうなるかである。

―家賃の安い地方に引っ越したらどうか。地方に引っ越して人手不足の農業ででも働いたらいい。
―貧しいのに生活保護を受けずに頑張っている人もいるんだ。生活保護は甘え
―教育費だって本当に必要なのか。全部公立で済ませればそれほどの負担ではない。公立高校に入れなくても高校は義務教育ではないのだから働けばよい、働きながら通信制や定時制に通えばよいではないか。社会に出てしばらく経ってから学校に通いなおす道もある。
―親族兄弟にどこまで面倒見てもらう努力をしたのだろうか。本来親族兄弟が果たすべき責任を国に押し付けていないか。
―生活保護が必要というが、本当に必要だろうか。親族兄弟が生活水準を落としたくないから生活保護に押し付けているだけではないか。食うや食わずやという状態になっていないのだから生活保護はは甘え。
―生活費だって本当に足りないのか。動物園だCD買うだとずいぶん贅沢な暮らしをしているのではないか。その代わりに囲碁・将棋・トランプでもしたらいい。働いていないのだからお金がかかるレクリエーションは贅沢ではないか。
―だいたい今だって膨大な費用がかかっている。このままにしておけば怠け者が増える。大幅に切り下げることが必要。そうでないと維持できない。

…これには同意するところがあった人が多いと思う。それもそのはず、実は最後のだけは実例を拾い集めて再構成したものだからだ。このような生活保護批判が実際にある。このリストをよく見てほしい。もうお気づきだろうが保育所や老人福祉についてうんとうんと厳しいことを言ったらどうなるかのシミュレーションはすべてこのリストを改変して記述した。保育所を求める保護者や老人について言ったら猛反発するのに生活保護利用者について同じことを言ってら拍手喝采。

 行政がどこまでサービスするべきかを決めるのが難しい理由はひとえにここにある。自分がサービスを受ける側だと手厚いサービスを求めるのに自分が負担をする側だとサービスを絞ってほしいとなる。同じようなことを茨城県高校教員の夏木智氏は「福祉川柳の大騒ぎ」という小論で詳しく述べている。どこまでサービスをするべきかを決めるのはなかなか難しい。ただ、ある分野でのサービスについて厳しく対象者を選別しろとすると他の分野のサービスにもそれが波及しがちである。保育所について保育サービスについて厳しい視線を送っている田中ゆうたろう杉並区議が所属している政党が生活保護について厳しい選別を主張する自民党であるのが示唆的である。ある分野についてだけ厳しいことを言ったとしてもほかの分野にその厳しさが飛び火する可能性は十分にある。自分の給付だけは寛大に、他人の給付は厳格にというのはうまい話だがそんな都合よくはことは運ばない。

 ここまで偉そうに書いてきた私だってどこまでサービスに寛大さを求めるかはなかなか決めあぐねている。生活保護利用者が保育所利用者とまったく同じようにいくらでも贅沢な生活が出来るようにするべきだというのはおそらく間違いだとは思う。保育所利用者に生活保護利用者と同じ暮らしをしろというのも多分間違いだ。だからと言ってどこまで生活保護利用者と保育所利用者の差異を認めるべきかもなかなか難しい。いちおうこの二つのニーズを別個のものとして「保育が必要かどうか」と「健康で文化的な最低限度の日常生活を満たしているかどうか」を別に測るという整理の仕方を考えてはいるが、これだと保育所利用者と生活保護利用者の差異を不当に大きくするのではないかというためらいがある。
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テーマ:社会保障 - ジャンル:政治・経済

■無理やり理屈をこじつけて生活保護利用者がパチンコすることを批判する人たち

 先月(2013年2月)終わり頃、BLOGOSというサイトで生活保護利用者がパチンコをすることの是非について論じた記事があった。その記事のコメント欄で行われた論争に私も参加したが、その過程でいろいろ思うことがあったのでここに書き記しておく。なお、最後に「まとめ」を記したので読む時間がない人は最後のまとめだけを先に読むことをおすすめする。

1.ギャンブル依存症(病的賭博)の拡大解釈
 生活保護を利用している人でなおギャンブルする人は依存だから治療しないといけないという意見

大概の生活保護受給者でギャンブルに行く人は少ないと思いますが、逆に考えると生活保護を受けるほどになってまで、まだギャンブルに行ってしまう人(体力的にも行ける程の健常な方)が、娯楽のためだけに行くとは思えません。
 確実に経験者で、しかも冷静に考えれば相当痛い目にあっている筈なのに愚行と理解でないほど依存度も高く、2度目の身を滅ぼすために行くのです。
あえてもう一度問おう、生活保護受給者がギャンブルをする是非(木曽崇) - BLOGOS(ブロゴス)、poma氏の意見

 同氏の意見をもう一つ抜粋しよう。

まず、生活保護を受ける前は、ギャンブルをやっていない、もしくは少額で自制できていた人が、他の理由で生活保護受給者になってしまった場合、ギャンブルに行くことが止められない人は殆どいない思いましたので前段でそれを書きました。
 私としては、ギャンブルは運営元のマージンがある限り損をすることが前提ですから、生活保護を受けても自制が利かず止められない人は、元から依存性の高い人だと思っています。
あえてもう一度問おう、生活保護受給者がギャンブルをする是非(木曽崇) - BLOGOS(ブロゴス)、poma氏の意見

 と、あくまでも生活保護を受けながらパチンコをしている利用者はまるで依存症かのような書きぶりである。さんざんこう書いておいて氏は後に「依存症に至った人のことだけを問題視しています」みたいな事をぽろっと言っているが不可解である。

次に、ギャンブルが生活になくてはならないという程度でギャンブル依存症と「診断」を下した例。

ちなみに、ギャンブル依存症を取り扱っている精神科もあります。
ギャンブルが「生活になくてはならない」というのであれば、逆に精神科への受診をオススメします。
あえてもう一度問おう、生活保護受給者がギャンブルをする是非(木曽崇) - BLOGOS(ブロゴス)、hishida氏の意見

 さらに氏は過激にもこう意見を続ける。

>パチンコ屋にいると落ち着くだとかパチンコが生活になくてはならない程度でパチンコ依存症だと言っておられますが明確に間違い

と書いておきながら

>賭博によって個人的な生活が破壊されるなどの不利な社会的結果を招くにも関わらずなおも賭博を続けること

と書く。
生活が破壊されているから生活保護を受けているわけですが、その前提は無視ですか?
まさか「パチンコ屋にいれば落ち着く」が「ただパチンコ屋にいるだけ」だとでも?
台にも着かずにただいるだけの状態を許容するパチンコ屋があるのならば、具体的に提示してください。
あえてもう一度問おう、生活保護受給者がギャンブルをする是非(木曽崇) - BLOGOS(ブロゴス)、hishida氏の意見

 このように、生活保護利用者のギャンブルは一律依存症というスタンスを崩していない。挙句世界保健機関の定義にも噛み付く始末。

 さて、ここでギャンブル依存症の定義を紹介しておこう。ギャンブル依存症は世界保健機関がまとめている「疾病及び関連保健問題の国際統計分類」(ICD-10)の中では病的賭博として記載されている。このほか、アメリカ精神医学会の作成した精神疾患の分類(DSM)にも同じく病的賭博という用語で記載されている。ここでは簡潔なICD-10の定義を紹介することとする。
 世界保健機関は単なる分類コード表に過ぎないICD-10に追加して精神疾患の章につき「臨床記述と診断ガイドライン」と「研究用診断基準」を用意している。どちらも医学書院から日本語訳が出版されている。さて、この臨床記述と診断ガイドラインには次のように診断ガイドラインが記されている。

 本障害の本質的な特徴は,持続的に繰り返される賭博であり,それは貧困になる、家族関係が損なわれる、そして個人的生活が崩壊するなどの,不利な社会的結果を招くにもかかわらず,持続し,しばしば増強する.
(融道男・中根允文・小見山実・岡崎祐士・大久保善朗監訳、ICD-10 精神および行動の障害 臨床記述と診断ガイドライン(新訂版)、222頁)

 hishida氏は「生活が破壊されているから生活保護を受けているわけですが、その前提は無視ですか?」と書いているが、この診断ガイドラインを見ればわかるように、病的賭博の診断はギャンブルによって生活が破壊された、あるいは破壊されかねない時に限って下されるものであって、単に他の要因で貧困に至った人がギャンブルをやめていないということで下される診断ではないのである。このことを私は指摘したのだがついに回答はなかった。なお、この診断ガイドラインは鑑別診断として単なる賭博や賭けごとと区別されなければならないとしている。ここで単なる賭博や賭け事は「興奮を求めての,あるいは金を儲けようとしての頻回の賭博.このカテゴリーの人びとはひどい損失あるいは他の不利な結果に直面すると,おそらくその習慣を抑制するであろう」と定義されている。興奮を求めるだけでは明らかに病的賭博とは言えず、その賭博が生活を破壊するに至ったときに初めてギャンブル依存症との診断が付けられる。
 ところで先に挙げた皆さんは生活保護利用者でありながらパチンコをすることそのものを病的賭博と位置づけている。挙句の果てに私が指摘したら「枝葉末節にこだわる」云々とのたまう始末。生活保護利用者の嗜好を束縛する手段として病的賭博という診断名を用いているに過ぎない。精神医学にとってこのような思想統制に使われないようにするというの倫理上きわめて重要なことなのであるがこれを一切無視している。もとより正常な思考というものを定義するのはきわめて難しく、一歩間違えると単なる思想統制に堕してしまう危険性がある。だから精神医学界ではある状態が病気に該当するかどうかを慎重に議論をしているのだが(このような議論の末同性愛が精神障害の分類から削除された)、生活保護利用者のパチンコを即病的賭博としてしまう人たちにはこのようなためらいが一切存在しないようである。単に自分の思うとおりに生活保護利用者が行動しないことに対して腹を立て、精神医学というツールを用いて思考まで改造してしまおうと目論んでいるだけである。
 このパターンの変種とも言えるものもあって、それは「ギャンブル依存症から保護するためにパチンコは全面的に禁止すべき」というものである。典型例を以下に示す。

車の所持に制限がかかるなら、同じ趣旨で「ギャンブルの禁止」も理屈では可能だと思います。
そして理由は、「ギャンブル依存症」からの保護です。
法律違反を「通報」する事であれば、「密告」という文字を使わずに済むでしょう。
本来の趣旨とは関係ない、「問題」ですが、これで「密告制度」を問題にする方々の反対する根拠がひとつ無くなります。
生活保護とギャンブルと密告(凜) - BLOGOS(ブロゴス)における68式氏の意見

 ここではギャンブル依存症から保護するという理屈でパチンコを全面禁止しろという議論がなされている。しかし、これも程度問題である。ギャンブル依存症になるリスクとギャンブルを全面禁止することのベネフィットを比較考量して決めなければならない。何が何でもゼロリスクというのはあまりにも幼稚な論である。それこそ放射脳の皆さんと何の違いもない。ギャンブルをしている人の大部分はそんな依存症になるわけではない。しかし、全面禁止とすれば依存症にはならない人のギャンブルさえも禁止ということになる。これが果たして妥当な結論だろうか。


2.生活保護利用者に娯楽などいらないという人たち
 今度は別のパターンである。生活保護利用者に娯楽などいらないと言う人である。典型例を以下に示す。

>「ギャンブル依存症からの保護」を理由としてパチンコを規制すべきだという。
保護すべきでしょう。
お金が減る娯楽を、生活の糧を税金か支出されている方が遊んでよい「遊戯」とは言えませんね。 「いいですか?お金がかかるのです。いわば贅沢です。代わりに、トランプ等がお勧め」

>お金が足りない状態をある程度緩和する制度が生活保護制度

そうなんですよ。
遊ぶお金はありません。 「遊ぶ、お金は、ありません」
遊ぶお金は自分で働いて稼いでください。

最後にひとつ言います。お金はともかく「時間」があるというのは、どのように言い訳しても納得できません。
働けないのは仕方がない面がありますが、遊ぶ時間があるというのは如何なものでしょうっか?
その時間は、体を休めるなり、勉強するなり、生活保護を抜け出すための時間に使ったり、時間を有効に使ってください。
生活保護とギャンブルと密告(凜) - BLOGOS(ブロゴス)における68式氏の意見

 ちなみに氏は私の言い分を自分の都合のいいように切り文して悪印象を与えることもしているがこれも引用しておく。

「生活保護を抜け出すための努力をしたら?」というと、
 「月月火水木金金」で働けと言うのか!」と言う人もいるし
「休日は、体を休めるなどしてください」というと。
 「傲慢だ!」と言い返してくるし
「こちらが、遊ぶお金を我慢して払われた、税金なんだと」と諭しても
「再分配の拒否だとか」言い出す人いるからなぁ。

いろんな意味で、成程なぁと思ったりします(苦笑)
生活保護受給者等のパチンコギャンブル禁止監視条例 生存権の行使さえ肩身が狭い社会では誰も生きられない(宮武嶺) - BLOGOS(ブロゴス)

 まことにもって都合のいい切り方をしたものである。呆れ果てるばかりだ。
 閑話休題、しかしここにはなかなかに難しい問題がある。すなわち「生活保護利用者に保障されるべき生活水準とはいかほどなのか」という問題だ。この点について最高裁は「健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴つて向上するのはもとより、多数の不確定的要素を綜合考量してはじめて決定できるものである」(1967年5月24日最高裁大法廷判決、民集第21巻5号1043頁)とあいまいなことを言っているのみだ。一方、福祉業界では貧困に関してラウントリーの定義というのが有名だ。肉体的能率を維持するのにすら足りない程度の収入しかないのを第一次貧困、肉体的能率を維持するのにギリギリ足りる程度の収入しかない程度を第二次貧困とした。ここでは単に食べられるだけという状態も貧困であるとみなしている。これと憲法を照らし合わせると、憲法は「健康で文化的な生活」を保障しているのであって、単に健康な生活を保障しているに過ぎないものではないのである。従ってラウントリーの第二次貧困程度の貧困であってもやはり健康で文化的な生活とは言えないのである。先の68式氏は遊ぶ金はないとしているがこれもまた単に肉体的能率を維持するための収入でよいと考えている節があり、やはりラウントリーの第二次貧困程度の生活水準が生活保護利用者に許される生活水準と考えていることになる。これが間違いなのはもう繰り返さない。
 さらに日本国憲法を審議した第90帝国議会で金森徳次郎憲法担当国務大臣と佐々木惣一貴族院議員との間で次のような問答があった。

○佐々木惣一君 第二十五條の第一項に付て御尋ね致します、「文化的な最低限度」とありますが、是は要するに文化的な生活と云ふことでせうが、文化的な生活と云ふのは一體どう云ふことを此の法文では言ふて居るか、固より文化的とか、文化と云ふことは何れの方面でも用ひて居つて、殊に近頃流行りの言葉ですが、唯併し法律、殊に憲法と云ふやうなものに於て之を用ひます以上は、其の概念と云ふものは極めて明瞭にならぬと困ると思ひます、それで此の方面の意味に於ける文化的と云ふことを御尋したい
○國務大臣(金森徳次郎君) 御答へ申します、是は衆議院に於て出來た言葉でありまして、私の御答が果して衆議院の方の思想に當つて居るかどうかと云ふことは存じませぬが、茲に文化的と申しまするのは、原始的と云ふ言葉の反對の意味でありまして、人間が歴史的に段々と文化を建設して來ますれば、其の時代其の時代に自ら然るべき文化と云ふものがあらうと思ふのであります、其の文化と云ふものを中心に致しまして、それを基準として居る生活、斯う云ふ風に了解致します
○佐々木惣一君 御説のことは大體分りましたが、まだどうも分りにくい、其の時代時代に於て文化と云ふものがあると仰しやつたが、それはさう思ふのですけれども、其の所謂文化と云ふのはどう云ふ意味でせうか、今の御説明に於ける文化ですな
○國務大臣(金森徳次郎君) 斯樣な包括的な言葉を的確に定義を致しますことは、ちよつと私には出來さうもないのでありますが、併し私の平素から了解して居りまする所では、人間は精神的なる努力に依りまして我々が一歩々々と、謂はば原始的とも謂ふべき人間其のものに、物を加へて生きて居ります、知識學問の發達及びそれに基いて諸般の建設的なる企てを致して居りまして、兎に角我々の生活内容を豐富にして居ると云ふことは疑のないことであります、左樣な建設せられたる面に於て、原始的なる人間は文化的なる人間に相當變形せられて居ると考へますると、斯樣な意味に於て文化と云ふことが考へられると私は信じて居る譯であります
―1946年9月21日、貴族院帝国憲法改正案特別委員会会議録より

 旧字旧かななので読みづらいのだが、かいつまんで言うと私たちが文明と呼んで親しんでいるものはすべて文化であるということである。生活保護を批判する一部の人たちが言うように図書館を使用できれば文化的だなどという次元の低い話ではないのだ。ここから娯楽もまた文化的生活に欠かせない要素ということになる。
 と言っても何でもかんでも許されるというわけでもない。憲法が定めているのは「健康で文化的な最低限度」。どこまでが最低限度かというのもまた難しいが、少なくとも生命を維持するのにギリギリ足りる程度では文化的とは言えまい。さて、どこまで許されるか。旧厚生省の社会保障審議会は生活保護基準について、一般国民の大多数が維持してきた生活様式が維持できなくなる所得を生活保護基準として考えるべきとの考え方を示している(厚生労働省資料(PDFファイル))私もこの考え方は妥当だと考える。一般国民の大部分が享受するものは生活保護利用者も享受していいのではないか。所得については社会保障審議会は「変曲点」という概念を持ち出して説明しているからこれによればよい。その他の具体的な品目としては7割程度の国民が享受するものは生活保護利用者も享受してよいだろう。7割というのは家電の普及率がこれを超えたら生活保護利用者も所持していいという基準である。
 娯楽は「平成23年社会生活基本調査」によれば8割以上の国民が享受している。この考え方からすれば当然生活保護受給者も享受して良いということになる。

3.まとめ
・生活保護利用者のパチンコについてあーだこーだ言ってるけれど要は程度問題でしょ。何事もほどほどに、極端に走るのはよくない。
・生活保護利用者はただ生命を維持できればそれで良いというのは間違いだ。

テーマ:生活保護 - ジャンル:政治・経済

■明らかに少ない兵庫県小野市の障害福祉サービス利用率

 今日は手早く書く。みわよしこさんが「生活保護のリアル」という連載の最新回で次のように書いている。

 福祉に関する小野市のデータを見ていると、いくつか気になることがある。重度身体障害者の人数に対してヘルパー派遣の利用者が非常に少ないことと、精神障害者比率が非常に少ないことだ。
ギャンブル依存症を知らずに依存症対策!? 「生活保護費浪費禁止条例」が逆効果になる可能性 ――政策ウォッチ編・第19回|生活保護のリアル みわよしこ|ダイヤモンド・オンライン

 ここに引用されている、小野市の資料「小野市の保健と福祉」平成24年版によれば身体障害者手帳1級・2級を持っている人が844人いるのに対してヘルパー派遣はたったの32件しかなかった。身体障碍者総数は1894人、44%が重度身体障碍である。これが少ないかどうかについて氏は「他地域に、同様の比較のできるデータ(身体障害の等級別人数など)を容易に見いだせないため、本当に少ないのかどうかを現時点で断言することはできない」としている。そこで私の出番である。

 政府統計の総合窓口(e-stat)を探したら見つかりましたよ、この問いに答えを出してくれる統計が。「平成18年身体障害者・児実態調査」がそれである。これによると身体障碍者の12.7%がホームヘルプサービスを利用したという(表49 障害の種類別にみたホームヘルプサービスの利用状況(身体障害者))。ちなみに同年の「福祉行政報告例」によれば身体障害者手帳交付総数が4,895,410人、うち1級・2級の重度障碍が2,319,593人で重度障碍者の占める割合は47.38%であるから2011年の小野市における身体障碍者の割合とそう大して変わらないのである。
 重度身体障碍者の割合は大して変わらないのにどうしてホームヘルパー利用率が全国の12.7%という数字が小野市では1.69%と10分の1にまで下がるのだろうか。「恥」の意識とやらでも強いのだろうか。まったく。

テーマ:福祉政策 - ジャンル:政治・経済

■全国学力テスト‐平均正答率は私立進学率と関係がある可能性がある

 唐突に全国学力調査についてである。この調査により都道府県別の学力に順位が付けられ、各都道府県の教育関係者は一喜一憂していることだろう。また、一般市民の間でもこの調査に関心をもたれる方も多いと思う。ところでこの調査、都道府県別結果は公立学校の結果だけしか公開されておらず、世に言う都道府県別学力順位なるものはすべて公立学校の結果である。このことをご存知だろうか?
 ここで疑問が出てくる。「学力上位層が多く国立・私立に流れ出る都道府県では学力テストの結果が低く出るのではないか」と。そこで私は検証してみた。方法は各都道府県の調査対象学年に占める公立学校生徒の割合(公立率)と学力テスト平均正答率の相関係数を算出するという方法で行った。データは最後に全数調査が行われた2009年のものを使用した。

 まずは小学校の結果である。こちらは公立の生徒の割合との相関係数は見られなかった。一応相関係数は算出したがp値が高く(国語A…0.73、国語B…0.33、算数A…0.57、算数B…0.57)有意な結果とは言えないのでここには掲載しない。このことから小学生の都道府県別の全国学力調査平均正答率と公立学校に通う生徒の割合とは関係がないように見える。小学生段階ではそれほど国立・私立学校に通う児童が多くないことがこのような結果になって表れているのだろう。

 これが中学校になると様相は一変する。中学校ともなると国立・私立学校に通う生徒の割合はぐっと増え、例えば東京都だと3割弱が国立・私立の学校に通う。一方、秋田県は1.6%に過ぎない。ん?これはかなり高い相関係数が出そうな気がする。もったいぶらずに結果を示そう。国語Aの公立率と平均正答率の相関係数は0.4、p値は0.005であるから1%水準で有意である。もっと強い相関が見られたのは国語Bの結果で、相関係数0.45、p値が0.001であった。それぞれのグラフを次に示す。国語A得点
国語B得点
 一方、数学に関してはそれほど強い相関は見られなかった。数学Aの平均正答率と公立率の相関係数は0.22であるがp値が0.13であるから有意ではなく、数学Bは相関係数0.29、p値は0.047で5%水準での有意に過ぎないという結果になった。グラフを示しておく。数学A得点
数学B得点

まとめ
 以上、つらつらと見てきたが中学校国語の結果については公立学校に通う生徒の割合が高い都道府県ほど平均正答率が高い傾向があり、中学校数学についても弱いながらそのような傾向が見られるということになった。さて、このような結果を基にして学力日本一だとかそうでないだとか一喜一憂するのは早計に過ぎると思うのだが、いかがだろうか。

テーマ:全国学力調査テスト - ジャンル:学校・教育

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