■2013年02月
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■池田大作の顕彰・2013年1月~3月

 2013年1月~3月の聖教新聞に第一報が掲載された池田大作が受けた顕彰の一覧である。凡例はこちらodbデータベース形式csvファイル形式(いずれもGoogleドキュメントへのリンク)でも公開しているので利用されたい。

聖教掲載年月日 2013.1.25
国名 メキシコ
授与機関名 公立第44公共産業工科学院
授与機関種別 大学以外の学校
授与顕彰 顕彰状
聖教掲載面 2面

聖教掲載年月日 2013.1.25
国名 メキシコ
授与機関名 私立コンピューター技術学院テミスコ校
授与機関種別 大学以外の学校
授与顕彰 顕彰状
聖教掲載面 2面

聖教掲載年月日 2013.1.25
国名 メキシコ
授与機関名 私立コンピューター技術学院クエルナバカ校
授与機関種別 大学以外の学校
授与顕彰 顕彰状
聖教掲載面 2面

聖教掲載年月日 2013.1.25
国名 メキシコ
授与機関名 私立コンピューター技術学院ホフトラ校
授与機関種別 大学以外の学校
授与顕彰 顕彰状
聖教掲載面 2面

聖教掲載年月日 2013.2.2
受賞年月日 2013.1.25
国名 韓国
授与機関名 世宗特別自治市教育庁
授与機関種別 地方政府
授与顕彰 その他の称号
授与顕彰名 特別顕彰牌
聖教掲載面 1面

聖教掲載年月日 2013.2.4
受賞年月日 2013.1.26
国名 韓国
授与機関名 晋州市
授与機関種別 地方政府
授与顕彰 名誉住民
授与顕彰名 名誉市民
聖教掲載面 1面

聖教掲載年月日 2013.2.7
受賞年月日 2013.1.25
国名 アルゼンチン
授与機関名 エスコバル市
授与機関種別 地方政府
授与顕彰 その他の称号
授与顕彰名 卓越した人物証
聖教掲載面 1面

聖教掲載年月日 2013.2.22
受賞年月日 2013.2.18
国名 ブラジル
授与機関名 ポンタグロッサ州立大学
授与機関種別 地方政府立大学
授与顕彰 その他の称号
授与顕彰名 最高栄誉賞
聖教掲載面 1面~3面

聖教掲載年月日 2013.2.24
受賞年月日 2013.2.20
国名 ボリビア
授与機関名 パンド・アマソニカ大学
授与機関種別 主体不明の大学
授与顕彰 名誉博士
聖教掲載面 1面~3面

聖教掲載年月日 2013.2.28
受賞年月日 2013.2.27
国名 キルギス
授与機関名 キルギス中国人文経済大学
授与機関種別 主体不明の大学
授与顕彰 名誉教授
聖教掲載面 1面~3面

聖教掲載年月日 2013.3.8
受賞年月日 2013.2.27
国名 韓国
授与機関名 蔚山広域市議会
授与機関種別 地方議会
授与顕彰 その他の称号
授与顕彰名 特別顕彰
聖教掲載面 1面

聖教掲載年月日 2013.3.16
受賞年月日 2013.3.15
国名 フィリピン
授与機関名 ヌエバ・ビスカヤ大学
授与機関種別 国立大学
授与顕彰 名誉博士
授与顕彰名 名誉人文学博士
聖教掲載面 1面~3面

聖教掲載年月日 2013.3.24
受賞年月日 2013.3.15
国名 韓国
授与機関名 統営市
授与機関種別 地方政府
授与顕彰 その他の称号
授与顕彰名 特別顕彰牌
聖教掲載面 1面
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テーマ:創価学会・公明党 - ジャンル:政治・経済

■「子ども」は「子供」と言い換えるのがよいという。じゃあ「高齢者」も「老人」に言い換えれば?

 ふと東京都福祉保健局のホームページを見ていると「子供」という表記が目に付く。一般に行政文書では「子ども」表記が定着しているからこれは結構珍しい。埼玉県では県議会で質疑があり、知事が「子ども」表記から「子供」表記へと直していく方向での答弁をしていて、実際に埼玉県ホームページを見たらいたるところに「子供」表記がなされていた。
 さて、「子供」表記をする理由として埼玉県知事は先の質疑で「簡単な漢字をあえて混ぜ書きにすることはない」「子供は一般的に親についていくのが自然の状態であります。それからまた、日本ほど子供が大事にされた国は基本的にはありません。こうしたことは、明治時期に来た海外の方々の文献を読んでも、明らかになっています。したがって、「子供」の「供(とも)」という漢字については考え過ぎで、一種の自虐史観ではないか、こんなふうに私は思っています。」と答弁している。ふむ、親についていくのが自然の状態だと、だから付き従うものという義を持つ供を使っても構わないという。それから昔からこどもは大切にされてきたのだから「供」という漢字は考えすぎだと。なるほどわかった。まず最初の点について。こどもは年齢を増すにつれ親についていく状態ではなくなっていく。とりわけ10代中盤から後半ともなると。そんな彼らをも指す言葉である「こども」という語に「供」を使うのは実情にそぐわない気がする。
 ここからが本題。話は変わってお年寄りを指す言葉の話である。近年では「高齢者」という語が公的文書では使われており、老人という語は「老人ホーム」など単語の中に入っているものを除いてはほとんど使われていない。東京都福祉保健局も高齢者という語を使っている。ここで先ほどの「子供」表記をめぐる議論を思い出してもらいたい。日本は子供を大事に育ててきた国なんだ、だから子供表記でいいではないかと、こういうことを述べていた。ならば多年にわたり社会の発展に尽くされた方々に対する敬意を表す言葉であったはずの「老人」表記だって大いに使っていいはずではないか。やたらと単なる年齢の高い引く意を表す言葉に過ぎない「高齢者」表記を使うのはこどもを表すときにやたらと「未成年者」表記をするようなものである。
 このことは老人福祉法を読んだときにより感じた。老人福祉法は冒頭の理念を定めたところでは「老人」表記を多用しているが、具体的な施策を定めている条文では「六十五歳以上のもの」という表記を使っている。多分これが言い換えられると「高齢者」になるのだろう。条文だから当然とはいえあまりにも無味乾燥ではないか。厳密な語の定義を求められる場面でない限り「高齢者」表記は使いたくないと感じた。
 昔からこどもを大切にしてきたのだから「供」という漢字に目くじらを立てる必要がないのならば昔からお年寄りに敬意を表す表現だった老人という表現だって復活させたらいいではないか。それに代わる「高齢者」という表記が無味乾燥にすぎるのだからなおさらだ。

テーマ:ことば 言語 - ジャンル:学問・文化・芸術

■体罰を論ずる人たちは「言うことを聞かせることが必ずしもできるわけじゃない」ということを忘れている

 はてなブックマーク - 朝日新聞デジタル:「ハゲ」と言われ平手打ち 神奈川の教諭、生徒16人に - 社会を見て思ったことをつらつら書いてみようと思う。生徒に「死ね」「ハゲ」などと暴言を吐かれた教員が生徒に対して体罰を行った事案を報じた朝日新聞記事につけられたブックマークである。このブックマークには暴言を吐いた生徒を非難するもの、体罰じゃなくて躾だとするもの、体罰以外の処分を検討しなければならないとするものなどさまざまなコメントが付されている。目視した範囲で代表的なものを挙げてみたつもりだが詳細はご自分で確認されたい。
 さて、ここにはさまざまな意見が載せられているが、「言うことを聞かせられる場合ばかりじゃない」という当たり前の事実に気付いている人はあまりいない。いや、そればかりか体罰に関する議論一般にこのことに気付いている人はいないように見える。言って諭せば生徒は聞くとする体罰を批判する人たちはともかく叩かなきゃ言うことを聞かないとする体罰を正当化する人たちは言うことを聞かせられる場合ばかりじゃないってことに気付いているんじゃないのと一見思えるが、実際はそうではない。彼らの主張は体罰をしてでも言うことを聞かせるべきというものであって、言うことを聞かせられない場合もあるということを無視している。

 学校以外の市街地では相手が必ずしも自分の思うとおりにならないことは当たり前の事実だ。皆さんもこれはわかるであろう。例をあげよう。「在日特権を許さない市民の会」の副会長・川東大了は水平社博物館前にて差別的な街宣を行い、裁判所から賠償命令を受けている。さらにこれに飽き足らず川東は今年の1月にも再度差別用語を使用した街宣を行っている。水平社博物館側からすればこんな街宣は止めてほしいと思っているだろうがしかし川東からは賠償金を取ることしかできていない。さらに進んで川東を強制的に施設に収容して矯正教育を受けさせることはできていない。川東は差別はお金の問題ではない、差別されてお金を取れば差別はなくならない、なぜなら差別してお金をもらえるなら差別が利益につながるからだ、差別の問題をお金にすりかえたなどとあげつらっているが仕方ないではないか。民事訴訟という手続きではほとんどの場合金銭賠償しか認められないのだから。そのほかの措置が認められるにしても謝罪広告ぐらい。それぐらいしかできないのである。
 刑事があるではないかと。それはそうだ。刑事であれば確かに強制的に拘禁することはできる。だがそれだけだ。必ずしも相手が言うとおりにすることを担保するものではないのである。たとえ刑務所に拘禁された受刑者が更生していなくても刑期が満了すれば必ず釈放しなければならない。出所後の「お礼参り」は時折あることだし、そこまで極端でなくても再犯というのは一般的に見られることだ。このように刑事罰といえども相手が必ず言うとおりにすることを担保するものではない。しかもその刑事罰とて必ず下されるわけではない。些細なもので言えば駐車違反・スピード違反など検挙される方が珍しい。市街地で殴りかかられたとしても怪我がなければ警告・注意で終わる場合が多い。そもそも警察が呼ばれない場合だってあるではないか。しつこくしつこくしつこく電話をかけてきて逆ギレする迷惑セールス電話だって警察は手出しできない。これらの事案をいちいち警察に処理させていてはキリがないという判断もあろう。だから市民は仕方がないと諦める。手荒く「制裁」をすればむしゃくしゃも少しは収まるのかもしれないが、そういうのはリンチになるから許されないことであるというのは常識である。

 ところが、こと学校になるとこのような常識がすっかり忘れ去られることになる。何が何でも体罰を行ってでも言うことを聞かせなければならないか言って諭すだけで必ず言うことを聞いてくれるかというのがまともに争点になるのだ。違うでしょう、これって。言うことを聞いてくれない場合はままある。言うことを聞いてくれないなら諦めるか公式の手続きに乗せるかどちらかしかないでしょう?言うことを聞いてくれる事案まで公式の手続きに乗せろとは言わないが、言うことを聞かず、それでも強制的にいうことを聞かせたいなら公式の手続きに乗せるしかない。そこまでは大げさすぎるというのなら諦める。何でこと学校となると100%言うことを聞かせなければならないと考えるのが、そこが不思議なのである。

テーマ:体罰の是非 - ジャンル:学校・教育

■抗がん剤もない時代、内科的がん治療だけでどれだけ長く生きられたか→現代よりは短かった

要約
 胃がんに対しては抗がん剤も放射線も手術も何もしないのと現代の治療を行うのとを比べたら現代の治療を行う方が生存年数は長くなる

本文
 某掲示板で近藤誠信奉者から「抗がん剤や放射線治療、手術をしたときとそれらのことをまったくしなかったときの治療成績を教えてよ、そうじゃないと標準治療は使えないよ」としつこく粘着されたので調べてみた。近年ではさすがに標準治療を行わないなんてことは不可能なので、現代の標準治療法のほとんどが存在しない戦前の論文を調べた。そうして見つかったのが1928年の論文である「胃癌ニ関スル統計的觀察」(中田秀、金澤醫科大學十全會雜誌33巻5号)である。この論文は金沢医科大学泉外科教室で治療を行った胃がん患者に関する統計を取りまとめたものだ。
 さて、この論文によると内科的治療のみを行った39人の最短生存月数は2ヶ月、最長で20ヶ月であった。1928年当時は現在使われる抗がん剤も存在しなかったから現代の基準からすれば何もしなかった場合の成績とほぼ同義と考えられる。一方、全国がん(成人病)センター協議会加盟施設にて2001年から2003年までの間に治療を開始した胃がん患者のうちもっとも進んだステージ4の患者の5年生存率は7.5%あった。近年の治療をもってすればもっとも進んだ胃がん患者でも7.5%は5年間の生存ができるのに対して1928年当時(実際にはそれよりも前)の内科的治療―すなわち何もしない―では20ヶ月の生存しか得られなかったのである。現代の治療の優位性は明らかだろう。

おまけ
 ここからはどうやって調べたかを述べておくことにする。最初はがんの治療成績をコクラン・ライブラリで調べていたが、治療を何もしないときの成績を出せといわれたので行き詰まる。何の治療もしなかったときの成績など当然だがどこにもなかったからだ。
 ふと、現代的な治療方法がなかった戦前なら治療をしなかった場合の成績データがあるのではないかと思いつき、まずは国立国会図書館デジタル化資料で医学中央雑誌の戦前のものを見ようと考えた。だが、国会図書館デジタル化資料の医学中央雑誌、論題ごとの索引がまったくないのだ。これでは使えない。次いで国立国会図書館サーチで出版年を1945年以前、検索語を「癌」としてデジタル化資料を検索する。そこでヒットしてきた「癌の早期診断及治療学」(角田隆、南江堂書店刊、1920年)を見てみるも具体的な治療成績は掲載なし。最後にci.niiで検索語を「癌」とし、論文を検索。そこでヒットした論文をいくつか見て検索語を「癌 統計」としてふたたび検索。これで出てきたのが今回の論文である。

テーマ:論文紹介 - ジャンル:学問・文化・芸術

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ブログ名変えた(2011.4.24)。落ち着かないなあ。

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